成就寺 広本 栄史

 皆さまお早うございます。今朝もお元気でお目覚めのことと存じます。
 今朝は日蓮宗建部町成就寺広本栄史がお話をいたします。
 先日朝早く、横浜のある男性から電話があり、「今年初めまで、母と2人で暮らしていました。ところが私の不始末で、家が焼けてしまいました。以後母は姉の嫁ぎ先へ引き取られ、頼りにしていたその母が春先になくなりました。それ以来体調が悪く、ずっと入院しております。今日電話したのは、私の心の中を聞いていただくためです。母親が亡くなり、誰にも私の心の中を聞いてくれる人がいなくなったのです。」と。それで、私の方から、「今一番困っていることは何ですか」と尋ねると、「お恥ずかしいのですが、失禁なんです。実は、今まで母にしか話せなかったことを、ご住職に話します。いったい何が原因でしょうか、教えて欲しいのです。」といわれ、私も返事に困りました。しばらく話を聞いているうちに、ふと思いました。未婚の男性ですから、何歳になっても、心は未発達のままで、ずうっと母親に甘えて生活していて、急に心の支えを失い、途方に暮れ、母の死後、母への思いが失禁という状態で出たのではないかと思います。それではお医者さんとよく相談して、良いお薬をもらってください。と、電話を切りました。
 その時思い出しましたのが、相田みつをの「人間だもの」という詩です。
『ただいるだけで、あなたがそこにただいるだけで、その場の空気が、あかるくなる。あなたがそこに ただいるだけで みんなのこころがやすらぐ そんなあなたに わたしもなりたい』
 お母さんといういう人は、この詩のようにいるだけでよいのです。生きていてくれるだけでよいのです。私は彼の話を聞きながら、思いました。人間というのは、一人では生きていけない。人間という文字は、人の間と書きます。人間は確かに人の間にあるのです。大勢の人々と生きているのです。親子、夫婦、兄弟、姉妹、隣近所等、その人達を信じ、その人達に深い愛情を抱いて生きて行かねばならないのです。みんなで支え合わねば生活できないのです。お互いに毎日忙しさに紛れ、そのことを忘れて生活しています。彼のようにある日突然母親と別れて、一人になってみて、初めて生きる支えがいかに大切か、と気がつくのが人間ではないでしょうか。
 日蓮大聖人は、妙一尼御返事という言葉に
『信心と申すことは、特別難しいことではありません。妻が夫を大切にするように夫が妻のためには一命をも捨てるように、親が子をいたわるように子どもが母親から離れないように、法華経、釈迦、多宝、諸仏菩薩、諸天善神等に対し奉り、一心に信仰して南無妙法蓮華経とお唱え申し上げるのを、信心というのです。』とお説きになっています。
 一心に南無妙法蓮華経と唱え奉ることが、世界平和の祈りであり、人々が幸福に暮らせると信じ奉ることのできる人間となり、愚かで、浅ましい自分であるが、お釈迦様の、御子と呼びかけらるる人間であると気づいたとき、自分が有り難くなって参ります。自分が有り難くなってくれば、親も子も、有り難くなり、夫も妻も、主人も部下も、すべての人々が有り難くなって、人間を拝む心が起こって参ります。そういう心で生活すれば、商売は繁盛し、仕事も進み、いろいろな面によい結果が現れて参ります。ですからお経を読んだり、お題目を唱えたりすればするほど、有り難い、尊い、うれしいことが出てくるのです。
 高石ともやの『野の花のうたがきこえますか』という詩に、
『小さな花が咲いています、いつもの朝、いつもの道、ただそれだけの今朝のできごと。
 生きていくことは、こんなに自然なこと。野の花のうたが聞こえますか、楽しいときは、一緒に笑って、苦しいときは助け合ったね。ただそれだけの家族の歴史。生きていくことはこんなに自然なこと。野の花のうたが聞こえますか。25年は早いものですね。流れた月日、あなたの笑顔、ただそれだけの、僕らの記念日。生きていくことは、こんなに自然なこと。野の花のうたが聞こえますか。』
 この歌を読んだときに「楽しいときは一緒に笑って、苦しいときは、助け合ったね、ただそれだけの家族の歴史」というところが心に残りますね。苦しいときに助け合えるのは、楽しいときに一緒に笑ったことがあるからだと思います。楽しいときに一緒に笑ったことがなければ、苦しいときに一緒に笑ったことがなければ、苦しいときに助け合うことは難しいと思います。
 法華経信仰の詩人、宮沢賢治が亡くなって、今年9月21日が70回忌でした。賢司は法華文学の詩人として多くの詩を残しました。賢司といえば、すぐに「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩句を思い出す人が多いと思います。あまりにも有名な詩なので、全文の引用は避けますが、手帳に書かれたのは昭和6年11月3日と推定されます。病床にあった詩人が、まず雨や風に負けない「丈夫ナカラダ」を持つことを願ったのは発想としては当然のことですが、ついで「欲ハナク、決シテイカラズ、イツモシズカニワラッテイル。一日ニ玄米四合ト、味噌ト少シノ野菜ヲタベ、アラユルコトヲ、ジブンヲカンジョウニ入レズニ、ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ」と続けたのは、むさぼり、いかり、ぐちの三毒におかされた修羅の境界を脱して、み仏の道に精進したいという気持ちからでしょう。み仏の道とは、生老病死の四苦に悩む大衆を導くための、人のために生きる誓願であることと関連づけると、「東ニ病気ノコドモアレバ、行ッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ、行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ、南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコワガラナクテモイイトイヒ、北ニケンクワヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」といった、東西南北の対遇法の修辞を用いた真意も理解されましょう。このような思いは花巻農学校の先生をしたからだと思います。退職後、肥料設計書を作成し、村々を回り、農民を指導しましたが、無償の献身的な奉仕活動でした。「世界が全体幸福にならないうちは故人の幸福はあり得ない」という信条に貫かれた菩薩行であったと訳しても良いでしょう。
 そして両親に宛てた次のような遺言がありました。「この一生の間、どこのどんな子どもも受けないような厚いご恩をいただきながら、いつも我慢でお心に背き、たうたうこんなことになりました。今生で万分の一も、つひにお返しできませんでした。ご恩はきっと次の生、又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。どうかご信仰というのではなくてもお題目で私をお呼び出してください。そのお題目で絶えずお詫び申し上げ、お答えいたします。」
 賢治は、お題目は、あの世とこの世を結ぶ唯一のパイプで、不可思議な働きをする霊の力であると信じて疑っていません。私たちも、どうせ生きるのなら、愛をよりどころとしていきたいものです。一人の人を心から信じ、愛することが、万人を信じ、愛することに開けていき、万人を信じ愛することが一人への信と愛をいよいよ深くするものと思います。賢治の信仰心を学びながら生きたいものです。
 今朝は建部町成就寺広本 栄史でした。