お会式のいわれ

 今から約七百年のむかし、弘安五(一二八二)年の九月、日蓮大聖人は草深い身延のお山で病の床に臥されておりました。
 松葉ヶ谷の草庵への襲撃、伊豆への配流、東条小松原のご難、龍口のご法難、雪国佐渡での二年四ヶ月のご生活、湿気の多い身延の沢での九年にもわたるご精進、無理に無理をかさねられた大聖人のおからだは、すっかり衰弱されていたのです。
 二度とこの山からは出ないとかたく心に決めておられた大聖人ですが、お弟子の方々やご信者の人たちの熱心なおすすめにしたがって常陸の温泉で療養するため、九月八日身延山をご出発、十一日間を費やして九月十八日に現在の東京、池上宗仲公の館にご到着になられました。お弟子や池上ご兄弟の手厚いご看護でお体の具合が幾分よくなられたのを機会に、大聖人はご兄弟が寄進された山上のお堂に「長栄山本門寺」と命名なさって開堂供養をされました。九月二十五日には『立正安国論』のご講義をなさるほどに回復されたのですが、十月にはいるとご病状が急に改まり、大聖人ご自身この池上の地を入寂の地とお考えになられました。
 十月八日、お弟子の中から日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の上人がた六人を後継者と定められ、法華経流布のご遺言をなさいました。また、経一丸(後の日像上人)に京都での法華経弘通を託されました。なすべきことを全てなし終わった大聖人は心にかかる一点の雲もなく、弘安五年十月十三日辰の刻(午前八時)、六十一歳をもって安らかにご入滅されました。
 このとき、大地は振動し、日昭上人が鐘を打って大聖人のご臨終を告げられると、時ならぬ桜の花が咲き、天地も大聖人のご入滅を悲しまれたと伝えられています。
 大聖人のご命日、お逮夜の法要のことを「お会式」とよんでいますが、古くは「御影講・御命講」ともよばれ、桜の花で飾った万灯をかかげて、纏をふり、うちわ太鼓でお題目を唱えながら大聖人ゆかりのお寺にお参りするのをならわしといたしました。中でもご入滅の霊地池上本門寺へのお参りは大変なもので、江戸の名物に数えられるようになりました。現在でも十月十二日には一夜で数十万人の善男善女の参詣でにぎわいます。
 「日蓮は去る建長五年四月二十八日より今年弘安三年十二月に至るまで二十八年が間、又他事なし、ただ妙法蓮華経の七字、五字を日本国一切衆生の口に入れんと励むばかりなり。これ即ち母の赤子の口に乳を入れんと励む慈悲なり」『諫暁八幡鈔』
 お会式は、大聖人に感謝のまことをささげるとともに一人でも多くの人々にお題目を唱えさせたいというご誓願のお手伝いを私たちもさせていただきますと、大聖人にお誓いする日です。
 「力あらば一文一句なりとも語らせ給うべし」のご遺誡のとおり、人々にすすめてこのお題目の輪を拡げてゆくことが、日蓮大聖人に対するなによりのご報恩です。
 この機会に、あなたが大聖人のご信者としての決意をかため、さらに一層の信行を深めてゆかれることをお祈りいたしております。             池上本門寺「お会式のいわれ」より