備前法華・・・「備前法華と安芸門徒」という言葉は江戸時代以来広く人々に親しまれている。真宗門徒といえば安芸(広島県)を、法華信者といえば備前(岡山県)を想起するという意味である。今日、岡山県下各地で道のほとりに「南無妙法蓮華経」「南無日蓮大菩薩」「南無大覚大僧正」などと刻まれた供養塔が数多くみうけられる。これらの石塔から多くの魂が題目への信仰によって安らぎを得ていたかをしのぶことができる。備前に法華宗を最初に布教したのは大覚である。大覚が備前に最初に入ったのは旭川河口の浜野で、この地の豪族多田氏の帰依を受け松寿寺を創建し、次いで二日市に妙勝寺を開き、これが備前法華の始まりである。大覚が精魂を傾けて備前に弘通したのは元弘の末頃(1333)から康永(1342)にかけての一〇年前後とみられるが、とくに暦応年間(1338−41)前後の遺跡遺墨が多い。『一遍聖絵』で有名な備前福岡にも巡錫され(説法の旧址に実教寺が建立され明治中期、現在の瀬戸町鍛治屋に移転)、今日岡山県下に大覚によって開創されたと称する寺伝を持っ寺院は、おそらく二〇ヵ寺以上を数える。寺伝のすべてを歴史的事実とは断定し難いが、大覚の布教がいかに大きな役割を果していたかを知る傍証となり得るかもしれない。松田氏入信の経緯について元禄版『道林寺縁起』は次のように伝えている。『源平盛衰記』にその名の出てくる備前の古刹、福輪寺はその座主良遊が大覚に宗論をいどみ逆に折伏せられ一山ともに法華宗に転じた。当時富山城主松田元喬は名刹の転宗を嘆き、大覚と真言僧を城中で宗論によって正邪を糺さんとしたが、大覚に教化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号蓮昌院殿にちなみ蓮昌寺と名づけた。また福輪寺は松田氏の尽力によって修復再興されて妙善寺と改称した。元喬の子、元成は居城を金川に移して妙国寺を建て、城中に建てた道場は道林寺となり、その子元満は出家して日精と称し、元成の子元勝は妙覚寺日寮に帰依し、父戦死の地矢上(現・熊山町弥上)に大乗寺(寛文年中廃寺となった)を建て、教線を伸張させていった。松田氏が武力、政治力を背景として、領内の他宗寺院を次々に改宗させたのもこの頃のことである。この間の消息はかなり後世の史料であるが、土肥経平の『備前軍記』巻三に「松田近年日蓮宗を甚以て信仰して、吾領内の寺々を其宗に改めさせ、したがはざる寺を焼はらひける金山観音寺吉備津宮など放火せし此時なり金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し」と伝えている。近世初期、不受不施義がキリシタンと共に禁教されるにいたった後も、備前が長く不受不施派の地盤として存続し、僧侶や信徒の多くが幕藩体制のきびしい弾圧の嵐の中に固く信仰を守り続けていったことは、中世以来の備前法華宗が妙覚寺の門流であったという歴史的背景があった。備前法華の呼称はある意味では、備前不受不施につながるものであったともいえる。ともかく松田氏の強力な保護政策にたすけられて、著しく教勢を伸展させ、人々の間に法華信仰を深く植えつけていき、法華信仰の深まりのなかから、日蓮宗史上注目すべき現象の出現をみた。それは備前を中心として日現、日典、日惺、備中から日樹らの名僧を輩出せしめたことである。名僧知識の輩出は、単に松田氏のごとき上からの政策による政治的結果としてだけでは説明し得ないものがある。大覚以来、幾多の日蓮宗僧侶の根強く絶え間のない教義の伝道が広く人々の間に滲透し、またこの教義を受容した多くの民衆が彼ら自らの生きる心の支えとして機能し得た時、初めて備前法華の名称が可能であった。宇喜多秀家が領主の時、宇喜多の家中がキリシタンと法華派に分裂、対立し、法華派が迫害されることがあっても、その勢力が微動だにせず近世へと承け継がれていったことも、その強信のほどが推察される。
大覚大僧正(1297−1364)・・・日像(1269−1342)の弟子で、京都妙顕寺の二世を継ぎ、京都を中心に中国地方にまで至る地域の日蓮宗発展に大きな足跡をのこした。世に「大覚大僧正」と敬われている。公家の名門として知られる近衛家に縁故のある出自で(一説に近衛経忠の子とあるが、これは誤り)、永仁五年に生れ、貞治三年四月三日、六八歳で没した。大覚は幼名を月光丸・羅疫羅丸といい、早くから出家して僧侶としての道を歩んでいた。一七歳の時、即ち正和二年(1313)、京都に伝道する日像の説法を聞いて宗を改め、その弟子となって「妙実」の名を授けられた。これから後、日像の右腕となって働き、日蓮宗の教線発展に尽くした。その役割は、(1)は日蓮宗の公武接近を推進したことであり、(2)は備前・備中・備後地方(岡山・広島県)に伝道して、後の備前法華の礎を築いたことであった。
 大覚妙実が妙顕寺の第二世貫首となった康永元年(1342)の当時は、南北朝内乱のまっただ中であり、足利幕府の基礎もまだ固まってはいなかった。このような不安の中で、妙顕寺では幕府の要請に応えて、南方凶徒退治のために、あるいは天下静謐のために、法華経を転読して祈祷を行ったり、祈祷巻数を奉ったりしている、これによって妙顕寺は幕府の強力な保護を受けるようになった。妙顕寺は更に皇室に対しても急速な接近をはかり、法華経を転読して「四海静謐之懇祈」などをこらした。このため後光厳院は延文二年(1357)に綸旨を下されて、「都鄙に勧進して三千万部法華経の読誦を行うこと」を命じられた。また延文三年には妙顕寺から捧げた三千万部法華経巻数に応えて「四海唱導」として「一乗之弘通」をいたすべき旨を仰せ下された。この綸旨によって妙顕寺では山号を呼ばずに「四海唱導妙顕寺」と称するようになった。延文三年の夏には深刻な旱勲が京都を襲った。そこで大覚妙実は詔によって法華経を読誦し雨を祈ったところ、たちまちに効験があって降雨をみた。この功績により日蓮・日朗・日像に「菩薩号」を賜わり、大覚妙実自身は大僧正に任じられた。妙顕寺は日像によって日蓮宗の京都における発展の根拠地として開創された寺であったが、大覚妙実の活躍によって名実共にその地位を確立したのである。
 妙顕寺の京都におけるこのような繁栄に対して、比叡山はようやく圧迫を加える。文和元年(1352)、比叡山衆徒は祇園感神院に命令を下して妙顕寺を破却しようとしたが、幕府の保護があったからであろうか。遂に事なきを得ている。このように、大覚妙実は師の日像に次いで公武と深い関係を結び、日蓮宗の歴史の上に大きな功績を残した。大覚妙実の足跡は中国地方に広くみられ、特に三備(備前・備中・備後)には開創寺院が多くみられる。この地にはすでに日像の時から日蓮宗の信仰が及んでいたが、大覚妙実が元弘の末(1333)から康永(1342)にかけて伝道活動を展開したことにより、その教勢は格段に強固なものとなった。この中で特に注目されるのは備前松田氏の入信である。
 大覚妙実が備前津島(岡山市)で伝道活動をしていたところ、真言宗福輪寺良遊と問答して論破し、その寺を改宗させた。これを聞いた富山城主松田元喬は、領内の真言宗の僧侶と大覚妙実を城内に呼んで問答を闘わせたところ、真言宗が負けてことごとく改宗した。そこで松田氏一族をあげて大覚に帰依し、福輪寺を蓮昌寺と改め、日蓮宗の伝道活動を援けた。これが後に松田氏を最大の外護者とする「備前法華」が形成される契機となり、日蓮宗の全国的な発展の礎ともなったのである。中国地方における大覚妙実の足跡は、このほかに備中(岡山県)の野山庄・穂田庄、更に備後(広島県)の鞆などに認められる。これらの地方には「大覚大僧正」の伝説が数多く伝わっている。