皆様おはようございます。今朝は岡山市妹尾にあります日蓮宗一心寺の修徒安森泰譱(たいぜん)がお話しさせて頂きます。
毎日暑い日々が続いております。お寺には様々な樹木が植えてありますが、こう暑いと毎日の水やりが大変で、水やりだけで、1時間以上かかります。また、樹木は水をやらなければ、枯れてしまいますのに、なぜか水をやらない雑草はとても元気ですくすくと育ち、こちらの草取りもこの暑いなかは大変です。さすが雑草魂といわれるだけあって、厳しい環境で育っているものは、それに対応できる体になっているのですね。私の体は・・・うーん若干温室育ちなのかもしれません。
草取りをしていてふっと思い出すことがあります。それは日蓮宗の総本山である山梨県の身延山久遠寺で僧侶の修行を一年間していた頃、あるお上人が朝のお勤めの後に話されたお話です。それは次のようなお話しでした。
「今、身延山で修行をしている者が境内の草取りをしておりますが、みなさんはこの草取りを初めてされた方は誰だかご存知ですか。その方は、今から2500年前に生きた方で、ある国の王子として生まれました。ある時、その王子がお城を出て、町を歩いていると一人の老人に出会いました。杖をつき、背中は曲がり、歩くことさえとても辛そうでした。それを見た王子は、人間は老いる苦しみがあるんだな、ということを知りました。そして、次に病気で寝ている人がいました。とても苦しそうに咳き込んでいます。それを見た王子は、人間は病にかかる苦しみもあることを知りました。そして、次に町を出た時には、お葬式をしているところに出合いました。人が死に、そして家族達が悲しんでいる姿を見て、人間には死んでいく苦しみがあることを知りました。王子は悩みました。生きることは苦しい事なのか。そう思っていると、ある出家者に出会います。その方が王子には輝いて見えました。そしてこの苦しみから解放されるにはどうすれば良いか、を見つけるため、王子自身が出家をし、インドの地で悟りを開かれました。生きることは苦しい事である。と苦を悟られたかた、くさとり(・・・・)、そうです。それはお釈迦様です。」
修行僧である私は、大変感動いたしました。しかも単なるダジャレというだけではなく、実際に草取りをしていると、とても根気がいる作業で、特に今の季節は草を取っていると、蚊が寄ってきたり、汗を大量にかき、体がべたべたして気持ち悪くなります。草を取るという単純な作業でさえ、自分にとって不都合なことが多々起こります。こうなってくると、自分の気持ちも、もういやだー、早く終わらせよう、もうやめようか、いやいや我慢してがんばろう、など多くの気持ちが出たり入ったりしながら心にはストレスがたまります。
このように心が右往左往するところに私達の苦しみが生まれてくるのかなと、あのお話しを思い出しながら、毎日草取り修行に励んでおります。
私は僧侶になる前、教員をしておりました。自分では生徒のことを一番に考え、どのようにしたら彼らが成長できるかな、と色々考え日々生徒指導をしているつもりになっておりました。ですが、生徒に思うように理解してもらえなかったり、行動してもらえなかったりすると、なぜ私が言っていることが分からないのか、それは違うだろ、などとよくイライラしていました。そんな時、ある生徒が、「先生のその機嫌の悪そうな顔を見ていたら、こっちも嫌になる。」と言われました。自分ではそんな顔をしているつもりは無かったのでとてもショックでした。私は、どこかで、生徒のためにしてやっている、という自分に対する傲慢な気持ちを持っていたのです。そして、生徒自身が自ら考え成長することを願っていたつもりが、自分の思うようにしようとしていたことに気が付きました。これでは、信じあえる関係が築けるわけもなく、生徒を導いていかなければならないはずの教師が、自分の感情に任せ、言葉や態度に表しては指導も上手くいかないことは当たり前です。私は教師としてダメだなーと落ち込みました。そんな時、師匠にこのようなことを言われました。「親も先生も初めから親、先生なのではない。子供と共に悩み考えて色々経験をしていくうちに、子供から親や先生にさせてもらっているのです。お坊さんもまた同じです。」と言われました。もちろん責任を持って子供達を指導していかなければならないのですが、初めは失敗しながら、悩みながら、少しずつ問題を解決していくうちに、親らしく、先生らしくなってくる、勘違いをして、俺は偉いんだ、となってはいけないということを教えていただきました。その気持ちで、言動に気をつけるだけで、クラスの雰囲気が変化していくのを実感しました。生徒が変わったというよりも、自分自身が変わったことで、生徒を見る目が変わってきたのだと思います。
また、私が僧侶の見習い修行をしていた頃、指導をしてくださったお上人が、「君たちにお参りの方が合掌して頭を下げてくれるのは、その衣を着ているからであって、君たち自身が素晴らしいから合掌しているのではない。勘違いしないように」と言われました。尊敬されたり、おだてられたり、褒められたりすると、すぐ鼻高々になる、これも私達人間が陥りやすい勘違いです。
私達が日々あげている法華経の16番目のお経、如来寿量品に「所作の仏事」という言葉があります。この言葉の意味するところは、すべては仏のはからいであり、日々の行いは仏の教えに叶っていなければならない。ということです。仏様は、いつも私達に対して、何とかして仏道を歩ませ、将来は仏になれるように、いつも、色々な手段を使いながら私達に手を差し伸べてらっしゃいます。ですから、自分の身の回りに起こる全ての事が、仏様のはからいであり、私達一人一人に必要なメッセージが含まれているのです。先ほどの生徒の言葉、師匠の言葉、お上人の言葉、これらは、私という人間は鼻高々になり、偉そうになりやすいから気をつけなさい、という仏様のメッセージだったと思うのです。言葉だけでなく、最近、上手くいかないな、と思うことがあった時も、それは仏様が「もう一度自分を見つめ直してみなさい」、と言われているのかもしれません。ですが、自分の胸に手を当ててみてください。自分にとって厳しい言葉、都合の悪い出来事は、腹をたてたり、他人のせいにしていませんか。仏様のメッセージをどのように受け取るか、この判断は私達自身に委ねられています。その受け取り方で、自分の心も物の見方も変わってくると思うのです。仏様のメッセージを素直に受け取れるように努力をすること、それが、私達の仏道修行なのです。
まもなくお盆に入ります。お盆ではご先祖様が皆様の家に戻ってこられます。ご先祖様は毎日あちらの世で仏道修行をなさっています。ですが、このお盆だけは、皆様の家で休むことが許されているのです。お迎えの準備を整え、ご先祖様のお帰りをお待ちいたしましょう。そして、お盆の間は、家族揃って手を合わせ、しっかりとご供養をして、ご先祖様をいたわってあげましょう。それがこの世にいる私達子孫の役目です。本日は妹尾一心寺修徒安森泰譱がお話しさせていただきました。ありがとうございました。