おはようございます。今朝は、備前市浦伊部 日蓮宗 妙圀寺住職 平野光照がお話させていただきます。
皆さんは今朝、元気にお目ざめでしょうか?こんなことを敢えて聞かせていただいたのは、実は私、つい先日ぎっくり腰になり、歩くこともできず倒れておりました。その日に目覚めた時はいつもと変わらず起きたのですが、その後ぎっくりと。外見は何でもないのに、体を少し動かしただけでもピリッと痛みが走り、動くことが出来ません。自分の体が情けなく泣けそうでした。
それにしても、起き上がることや座ること、一歩踏み出すことや腰をかがめることなど、日頃は何とも思わず「あたりまえ」と思っていたことが、すべて腰のお蔭だったと思いしらされました。朝 目覚めることや元気に歩くこと、働けることなども、この「あたりまえ」がどんなに「ありがたい」ことか身にしみてわかりました。
仏教詩人の相田みつをさんは、「雨の日には雨の中を。風の日には風の中を」と言われています。梅雨でうっとうしいことですが、雨でいやだと言っていてもしかたない事、それより雨を楽しむ事を考えた方が賢明です。風がふいてつらくても、風のように厳しい状況の中におかれても頑張ろうと思うように努めましょうと言われています。人生何がおこるかわかりません。お変わりなければなによりです。でも、何がおこってもしっかり受け止めるしかありません。「雨の日には雨の中を。風の日には風の中を」です。
さて、先般、腰を痛める前ですが、私はしあわせの国と言われるブータン国に連れていっていただきました。一昨年でしたか、国王夫妻が日本に来られ、東北の被災地も訪ねていただいたことで有名になった国です。このブータンが幸福度世界一と言われている国です。つまり、「幸せ」と思っている人の割合が世界一多いということです。だから「しあわせの国」とも言われているようですが、実際その国に入ってみても、どうしてそう言われているのだろうかと思うほど特別な国ではありませんでした。住んでいる人がいい家にいるわけでも素敵な服を着ているわけでもありません。山に囲まれ、標高2000mを超えるところの集落、険しい山々と段々畑の中の集落ですが、まさに桃源郷という言葉がピッタリといった所でした。
そんな中で訪ねたお寺の入り口に大きな壁画があり、仏教で言う六道輪廻の絵が描かれていました。この絵の中心部に3匹の動物が描かれていました。何だろうと見みていると、「これは三毒を表しています」とガイドさんが説明してくれました。「三毒、つまり欲望・怒り・妬みを ヘビ・にわとり・イノシシで表しています。3匹が輪になっているのは、三毒の欲望が増えると怒りに繋がり、また妬みにも繋がっていくという姿を現しているのです。三毒の一つでもとらわれてしまうと、他のものにも連鎖して、その一つを断ち切って抜け出すまで、いつまでも三毒の世界のままなのですよ」と。ガイドさんの説明を、興味深く聞かせてもらいました。別のお寺ではこんな話をしてくれました。
「こうしてお寺にお参りしていい事をすると仏様から白い石をいただきます。逆に悪い事をすると黒い石です。最後に、どれだけ白い石がたまっているかで僕たちの行く末が決められるのです」などと言われます。こうした話は、日本でもします。ただ、この国の人のように素直に信じ、日々の行動に生かしているだろうか…と日本の人の、いや私の生活を思い返しました。
思い返してみて、ブータンの人々のしあわせ感をなんとなく垣間見た思いでした。三毒の話、三つの毒にとらわれない生活をという事は、私達も仏教の大事な教えとして解ってはいますが、実行がなかなかできていません。ブータンの人は仏教の教えを素直に聞き、欲ばらない・怒らない・妬まないという生活を実行され、この毒から抜け出さない限りしあわせなどありえないと教えておられるのでしょうね。白い石の話も死後のことを大事に考えて今の生活に生かしているようです。日本でも一昔前まではこうした教えを素直に守っておられたと思いますが、いつのまにか忘れてしまいました。自分勝手な考えで過ごすのではなく、仏教の教えを守り、素直にその生活をしていく。それがしあわせに繋がっているのでしょう。このブータンでしあわせについて教えられた思いです。
以前こんなお話の本を読んだことがあります。二千数百年前のインドでお釈迦様がお弟子さんや信者さんに説法されています。その時、空中に二千数百年後の未来に宇宙で生活している人の風景が写しだされます。お釈迦様はその様子を見ながら驚いて話されます。
「おー、これはなんということか。見たこともない宮殿のような住まいに過ごし、見たこともない乗り物が走りまわっておる。食するものもありあまる程あるではないか…。」 
その様子を見ていたお弟子の一人がお釈迦様に申し上げます。
「私どもの想像もできぬ豊かな生活をしておるようでございます。皆が御殿に住み、食べたいだけ食しておるなど、さぞしあわせいっぱいでありましょうな。いやいや、その御殿に住んでおる人の顔が笑顔ではありませぬぞ。もめごとのような。何ゆえでありましょう…。」
 お釈迦様が静かにお話されます。
「そのようじゃな。恵まれた所で、あらゆる物を手にして豊かにしあわせいっぱいかと思えば、そのような中でも争い事がたえぬようじゃ。私はそれを火宅つまり火の燃えさかっておる家と言った。以前から皆に話しておる如く、大事なことは少欲知足じゃ。欲は少なく足ることを知れ、満足することがなければいつまでも燃えさかっている家を抜け出ることもなく、しあわせなど来るものではない。」 (『未来妙法蓮華経』より)
 この小説の話はこのようなものでしたが、お釈迦様の時代と現代や未来の様子が交互に示され興味深く読みました。実際お釈迦様がお説きになられたお経、特に法華経は未来私達の為に説きおかれたものとの認識を日蓮聖人もなさっていますが、実に未来末法といわれる時を見据えておられるのですね。「少欲知足」ということは、簡単なようで難しいことです。それを二千年前のお釈迦様が説いておられるのです。それなくしてしあわせは望めないということを、今改めて思いなおさねばなりません。 
日蓮聖人がおられた七百年の昔、天災が続き作物もままなりませんでした。そんな中でも、聖人のもとに食べ物などを運んで下さった方々に深い感謝を示しておられます。伊豆や佐渡への流罪の時はもう命がなくなるかとの思いであったでしょう。夫妻で隠れながら食べ物や衣類を運んでくださった方は、日蓮聖人にとってまさにいのちの恩人です。佐渡でかたみとも思って書かれた書物には「今生の小苦なればなげかしからず、後生には大楽を受くべければ大いに悦ばし」と、この世での苦しみなどなんでもないと言われています。
日蓮宗では今、「いのちに合掌」を提唱しています。私達のいのちは決して私一人のものではありません。多くの命をいただき、今こうして生きています。ご先祖様の命ばかりでなく、動物、植物などの命もいただいて今を生かせていただいています。すべてのいのちを大切に、全てを無駄にしてはいけません。これこそ「少欲知足」です。すべてのいのちに手をあわせなければなりません。「いのちに合掌」です。 
私たちはしあわせについて、今改めて見つめ直さねばなりません。ブータンの国で教えられる事がたくさんありました。それにしても、あの国の宿に勤めていた女の子の笑顔は素敵でした。どうかいつまでもしあわせな気持ちを持ち続けてもらいたいと祈りをささげました。
今朝は、備前市浦伊部 妙圀寺住職 平野光照がお話させていただきました。