仏教アワーをお聞きの皆様、おはようございます。今朝は、岡山市北区庭瀬の大坊不変院住職、秦宏典がお話しさせていただきます。
 梅一輪一輪ほどの暖かさと俳句に申しますが、春の待ち遠しい時節となりました。梅はかわいい花びらが寄り添って一輪を作り、いい香りが伴って、心までほっと温かくしてくれます。それはやがて実をつけ、最高のご飯の友になります。
 子どもの頃、「梅は食うとも核(さね)食うな、中に天神寝てござる」と聞いたことがあります。元々食べようと思ったことはありませんでしたが、それ以来、罰が当たるから、食べてはいけないものと信じていました。ところが、理屈も分かりだした頃、誰かにおいしいから食べてみろと言われ、怖いもの見たさに一度だけ、おそるおそる食べてみたことがありました。そんなにおいしいとも言えませんでしたが、その時には、何で食べてはいけないと言われているのか分かりませんでした。それが近年になって、種の中身にわずかながら毒素が含まれていて、食べると腹痛や中毒を起こす恐れがあることを知りビックリした次第です。「種の中には天神さまがおられるので、食べると罰が当たりますよ」と戒(いまし) めた言葉なのでした。
 思い出してみると他にも、「おへそを出して寝ていたら、雷様にとられるぞ」とか、「ミミズにおしっこをかけたら、おちんちんが腫れる」とか、「夜、口笛を吹くと蛇が出てくるぞ」とか、「ご飯粒を残したら目がつぶれる」など、素直な子どもの頃に感じた恐怖として、深く記憶に刻み込まれています。それは今でも守り続けていることであり、自分の子どもたちにも教えてきたことでもありました。
 もう一つ、幼いある日の記憶が蘇ってきました。近所の万屋さんに友だちと行って、くじ引きのおもちゃを触っている内に、ぽろりともげてしまいました。ちょうど誰も見ていなかったので、しばらく黙っていましたが、子どもなりに犯した罪の呵責に耐えきれず、冷や汗は流れ、顔も引きつり、やっとの思いでお店のおばちゃんに打ち明けました。おばちゃんは、今回は仕方がないから許してあげるけど、二度としちゃあいけんよと言ってくれました。大きな安堵感に、思わず涙が溢れ、泣きながら帰ったことがありました。親に事情を話すと、こんなことを言われました。「お天道様が見てござる」良い行いも悪い行いも、誰も見ていないと思っていても、お天道様だけはいつも見てござる。だから、よいと思うことは誰に知られなくてもやりなさい。お天道様がほめてくださいます。でも、悪いと思うことは誰にも分からなくても、お天道様の罰が当たりますよと。
 最近、テレビのどの番組でしたか、恐怖を感じない子供が増えていますと言っておりました。ご両親ともにお仕事で夜が遅くなり、独り立ちが早くなった子ども達は、恐怖を自分なりに閉じ込めているのではないでしょうか。もし、そんな子ども達に「お天道様が見てござる」と言ったら、そんなの迷信じゃんと、軽くあしらわれそうです。
 ところが、先日お葬儀の後、斎場へ向かうタクシーの運転手さんが、「今は車に防犯カメラを付けておいた方が良いですよ。安くなってるし、いざの時の証拠になるからね」と
教えてくださいました。そういえば、ほとんどのお店の中には、防犯カメラが設置されていますし、街の通りのあちらこちらにも防犯カメラが設置されるようになりました。これはまさに、「お天道様が見てござる」ならぬ「防犯カメラが見てござる」ではありませんか。
 するとそれに対して妻の曰く、いやいや、防犯カメラはプライバシーの問題もあるし、心の中までは写せないわよ。でも、お天道様は、見たことを他の誰にも言わないし、心の中の善悪まで見抜くことができるわ。
 思わず、ホーと感心してしまいました。
 私は、今では岡山市の北の果てとなった、建部町の田舎のお寺で生まれ育ちました。小学校の頃までは学年の上下なく、男女の違いもなく、みんな名字ではなく下の名前で、ちゃんを付けて呼び合っていました。回りは農家の方がほとんどで、登下校の時は必ず声をかけてくださいました。悪さをすると、容赦なく叱られていました。地域みんなで、子どもを育てていたのだと思います。ですから、どこにいても誰かが見ていて、だいたい親には居場所が分かっていました。
 私にとってお天道様とは、全てのいのちを育んでくれる太陽であり、本堂に安置されているお釈迦様であり、両親であり、地域の方々でした。
 時は移り、今のお寺に入らせていただいて、まもなく三十年になります。
 当山の本堂にも、お釈迦様と多寶さまを中心に、大勢のお仏像が安置されています。
 お釈迦様は今でも、私の悲しい時の心に優しく寄り添ってくださったり、私の怠けた時の心を厳しく叱ってくださいます。
 お釈迦様は、今から三千年ほど前の四月八日に、この娑婆世界にお生まれになり、八十年の御生涯を過ごされ、二月十五日に御入滅されたと言われておりますが、それは仮のお姿でした。法華経というお経の中には、お釈迦様は、久遠の昔から仏様として、苦に悩む私たちを見守り続けてくださっていました。方便を持って涅槃を示されただけで、本当に滅したわけではなく、いつでも近くにいらして、正しい教えを説いておられると書かれてあります。ただし、素直な優しい心で、強くお会いしたいと願う心の持ち主のみ、お会いすることができるのです。
そして、いつも私たちの行動が正しいかそうでないかを知っておられて、私たち一人ひとりに合わせた方法をもって、仏道にお導きくださっているのです。
 どうか皆様も、心が悩める時も、嬉しいことがあった時にも、旦那寺の本堂へお参りなさって、お釈迦様とお話しください。
 今、ちまたでは凶悪な犯罪が、毎日のように報道されています。インターネット依存で、現実と仮想世界の境が分からなくなっている人たち。便利さ、豊かさに埋もれて、幸せ感が薄く、将来に希望がもてない人たち。もっと刺激を求めて、ドラッグに走ったり、過激派集団に参加しようとする人たち。まさに苦しみの海で溺れ、周りが見えていない状態なのです。
 幸せな環境が、一番近くにこんなにもあることに気づいてほしいです。そしてお天道様が見ておられる中で、堂々と正しいことができる人になってほしいです。
 そのために、私たちはいったい何ができるでしょうか。一人ひとりの力は、とても弱いものです。けれど、力を合わせ、一つの思いを為して、将来に希望のもてる安穏な社会作りをしていこうではありませんか。子ども達が、未来に夢のもてる社会にしていこうではありませんか。
 まもなくお天道様が昇り、今日も一日が始まります。当たり前の一日がやってくることに感謝して、皆様がお元気に過ごされますよう、お祈りいたしております。
 今朝は、岡山市北区庭瀬大坊不変院住職、秦宏典がお話しさせていただきました。ありがとうございました。 南無妙法蓮華経