皆様おはようございます。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘(ぎょうこう)がお話いたします。今年の2月、1週間余りの短い期間でしたが、インドに行ってきました。今日はそのときに感じたことを申し上げたいと思います。
海外旅行は今では珍しいことではありませんが、観光旅行でインドに行く方はまだあまり多くないのではないでしょうが。昨年度の海外旅行先の人気別ランキングによりますと、韓国、ハワイ、アメリカ、シンガポール、フランス、中国、イタリア、イギリスなどが上位を占め、インドは29位、エジプトが30位です。インドが29位ということをどのように評価するかは、一概にいえませんが、インド入国のためにはビザが必要ですし、個人で旅行するにはかなりハードルが高いと思います。しかし、インドは仏教の開祖、ブッダ、お釈迦様の生れた所ですので、仏教に関心のある方、とくに僧侶は、一度は足を運びたい国だと言えるでしょう。
私たちの一行は僧侶が5名、在家の方が9名でしたが、インドでは、お坊さんだけのグループにも何組か出会いました。インドは暑い国ですので、夏の旅行は厳しく、昼、外を歩くのは避ける方が無難です。従って、日本人が行く場合は、10月から3月までがいいシーズンということになります。今回は2月下旬でしたが、デカン高原の西部にある世界遺産のアジャンターやエローラの石窟寺院を見学した時には、昼間の気温は35度ほどになっていました。インドの人々は仏教のことを、インドの宗教であるヒンドゥー教の一派というか、分家のように思っていますから、仏教の遺跡を訪問する日本人に対してとても友好的です。

さて、今回のインドの旅では、デカン高原の南東部のアマラーヴァティーという所に残っている仏塔(仏の塔)の遺跡が非常に印象に残りましたので、今日は仏塔のお話をいたします。仏塔は、原語では、ストゥーパといいます。もともとブッダの遺骨を納めた塔のことで、骨は、舎利とも呼ばれますから、仏舎利塔とも呼ばれます。日本では法要の時、亡くなった方を供養するために、卒塔婆、略して塔婆という木の細長い板を立てます。この塔婆という言葉は、インドのストゥーパが起源となっています。
 紀元前五世紀頃、仏教の開祖、ゴータマ・ブッダが亡くなられた後、ブッダの遺骨は八等分され、インド各地に仏塔、仏の舎利を収めた塔が建立されました。その後、紀元前二五〇年前後、インドを統一したアショーカ王の時代からは、仏教信仰の広がりに伴ってインド各地で仏塔の建立が盛んになりました。仏塔は、大小さまざまですが、大きなものは、大体半円球の形に作られ、お椀を伏せたような形です。仏塔はブッダ亡きあとの仏教教団や在家信者にとってブッダを偲ぶ礼拝の対象として非常に重要な役割を担っていました。
 今回見学したアマラーヴァティーの仏塔は紀元後二世紀頃作られ、現在では基壇、すなわち上部の半円球の下の部分しか残っていませんが、直径は約五〇メートルもある巨大なものです。塔はレンガで築かれ、表面は石灰岩の板で覆われています。その周囲は欄楯(らんじゅん)という石で造られた玉垣で囲まれています。塔の周囲や玉垣には、おびただしい彫刻がびっしりと施されています。この華麗な浮彫のテーマは、ブッダの生涯の重要な場面やブッダが過去の世界で成した偉大な行為の物語です。仏塔にお参りする人々は、ブッダという存在を物語っているたくさんの彫刻・浮き彫りを目で見て体験し、信仰を深めることができます。
多くのお経には、仏塔に対して様々な供養がなされたことが説かれています。すなわち、花や花環を供え、香水や抹香・焼香で香りの供養をし、日よけの傘、旗、幟(のぼり)、吹き流し等で仏塔を装飾し、太鼓や笛、歌などの音楽や踊りで仏塔の功徳をほめたたえるといった行為です。私たちもこの遺跡にお線香をそなえ、お経を唱えて供養をいたしました。
この巨大な仏塔はもちろん当時の王朝の仏教に対する手厚い保護によって作られました。仏塔のそれぞれの部分に彫刻された石材には、それを寄進した信者の名前が刻まれています。その寄進者は、主に僧や尼僧、つまり仏塔のそばの僧院にいた出家修行者であり、また富裕な資産家や商人や交易商など古代の都市で勢力を持っていた人々です。
このような仏塔信仰を中心に、紀元前後から八世紀頃、仏教はインド世界において繁栄していましたが、次第にヒンドゥー教の信仰が強まり、また仏教を支援していた王朝や商工業者の勢力が低下してくると、仏教教団も衰退の時期を迎えます。十一世紀になるとイスラム勢力がインドの中央部にまで浸透するようになり、仏教寺院は破壊され、1200年にはインドにおいて仏教は完全に姿を消してしまいました。もちろん、中央アジアや中国には紀元後二世紀頃から、大乗仏教が伝来していました。

それでは、般若経や法華経といった大乗仏教の経典には、仏塔供養はどのように説かれているのでしょうか。ごく簡単に申し上げますと、これらの経典では、ブッダの遺骨や遺物を供養するよりも、経典を信仰する功徳の方がはるかに大きいと説いているのです。インドから遠く離れたシルクロード、中国、そして日本では、ブッダの遺骨(舎利)は容易には手に入りません。法華経は仏塔よりもブッダの言葉が書かれている経典を仏と見なして供養しなさい、ということを強調しています。つまりは経典がインドにおける仏塔の役割を果たすことになります。このことがインド以外の地域で法華経が広く信仰された理由の一つと言えるでしょう。
法華経の如来神力品で、仏は法華経の功徳を次のように述べておられます。
「仏なき後の世界で、この経を一心に保ち、唱え、説明し、書写しなさい。その書かれた法華経が実際にあるところは、そこが公園であれ、林の中であれ、木の下であれ、僧院であれ、在家者の家の中であれ、山のなかであれ、塔、すなわち経典を安置する場所を作って供養しなさい。それはなぜかと言えば、まさに法華経が実践されるその場所、道場において、諸仏はさとりをひらき、仏の教えを説き、涅槃に入るからです。」
「まさに知るべし、この処は即ちこれ道場なり。諸仏ここに於いて三菩提を得、諸仏ここに於いて法輪を転じ、諸仏ここに於いて般涅槃したもう。」
要するに、法華経が唱えられ、書かれた経典が存在する所、すなわち私たちが法華経を実践するその場所に仏様が出現して下さるというわけです。この法華経の教えは、インドからはるかに離れたこの日本で生活しているわたしたち仏教徒にとって本当にありがたい仏の言葉だと思います。
以上、南インドで見てきた巨大な仏塔の遺跡を見て、感じたことをお話しいたしました。

 本日の担当は、瀬戸内市長船町福岡の日蓮宗妙興寺住職、岡田行弘でした。