RSKラジオ・仏教アワーをお聞きの皆様、おはようございます。
本日は日蓮宗、岡山市妙龍寺、松下祥真がお話させていただきます。
新年を迎えまして10日ほど経ちました。皆様はどのような年末年始を過ごされましたでしょうか?
年末、と言えば大掃除ですね。各ご家庭では、新年を迎えるにあたって大掃除をされると思います。
私は以前、ガソリンスタンドに勤めておりましたが、年末は洗車の多さにてんてこ舞いでした。それでも、ピカピカのお車に乗った、笑顔のお客様をお見送りするのは、なにものにも代え難い達成感があります。
新年はやはりきれいなおうちやお車で気持ちよく迎えたいものですね。
なぜ新年を迎えるにあたって、きれいにするのかと言いますと、
お正月は、新年の神様、年神様をお迎えする行事であるからです。年神様は年の始めに、その年の作物が豊かに実るよう、家族みんなに幸せをもたらすために、高い山からいらっしゃるのだと考えられていました。
また、お正月は日本の1年の中で最も大切な時期とされています。
なぜかと言いますと、日本人は「清らかさ」を尊ぶからです。新年は、まだ何も起こっていない、無色の状態です。その何色にも染まっていないことを、日本人は尊びます。例えば結婚式の花嫁さんの着物が白いのも、同じ理由です。
日本人にとって、まだ何も起こっていない、初めての日、そんな無色もしくは白い新年はとても清いものなのです。
仏教でも、お釈迦様がいらっしゃる世界、霊山浄土と言いますが、そこは、清らかで汚れのない素晴らしいところであるとされています。
本日はこのお釈迦様がいらっしゃる世界とはどういうところなのかをお話させていただきます。
お釈迦様は、お釈迦様のいる世界をこのように表現されています。「私のいる世界は穏やかで多くの天の世界の者と人とで満たされている。自然や建物は様々な宝物で飾られており、宝の樹には花や実が多くついていて人びとが楽しく過ごすところである。」とおっしゃっています。
お釈迦様のいらっしゃる、心配ごとや憂いのない安定した浄らかな世界というのは、苦しみや悩みごとの多い汚れた不安定な私たちの世界に対して、全くの別の世界と思ってしまいます。しかし、実はそうではないんだよということが、お釈迦様の本心が説かれている、「妙法蓮華経」というお経には説かれています。
その「妙法蓮華経」は蓮華、つまり蓮の花のような素晴らしい最高の教えとされています。
蓮の花は皆様ご存知でしょうか?
蓮の花は、泥の中にありながら、泥に染まらない綺麗な花を咲かせます。この泥は私たちの世界に譬えられ、花はお釈迦様の教えを実践する人、菩薩行という修行を行う人に譬えられます。
この蓮華の譬えで、泥という私たちの世界は汚れたよくないもの、蓮華のようなお釈迦様の教えを修行する人とは全く違うものと思いがちです。
しかし、そうではなく、泥に染まらない綺麗な花を咲かせるためには、泥こそが蓮華に必要であるということです。泥から栄養をもらい、泥の中にしか咲かないのが蓮華です。
私は以前、自動車の整備の仕事をしておりました。自動車の整備士は作業着、ツナギを着て作業しています。お客様の車両を取り扱うので、ツナギを汚さないように作業をするのが一人前なのですが、新人のうちはどうしても、オイルや鉄粉で真っ黒になってしまいます。そして先輩から「早く着替えてこい!」と怒鳴られます。
私は、こんな汚くしてしまう未熟な自分を通り越して、早く先輩のようにきれいなツナギのままで作業できるようになりたいと思っていました。
しかし、あるとき先輩の話を伺うと、先輩もツナギを汚したことによる辛い経験があるということを知りました。あらためて考えますと、先輩はいつも、車に乗ったお客様の気持ちをもって叱ってくれていたということに気づきました。
ツナギを汚さない、一人前になるということは、ツナギを汚して悔しい思い、お客様に申し訳ない思いをしながら、いろんな気持ちを考える経験の積み重ねの上に成り立っています。
そんな私たちの世界とお釈迦様の世界について日蓮聖人の遺された『守護国家論』というご文章には、このように書かれています。「お釈迦様はここの私たちの世界、娑婆世界にいらっしゃる。そしてこの土は安穏であるとおっしゃっている。私たち法華経の教えを修行する者は、この私たちの世界を捨ててどこの世界に行こうと望むのだ?修行者は修行者がいるこの世界を浄土と思うべきだ。」とお教えです。つまり、この世界を捨てて他に浄らかな世界を求めること自体が迷いであり、お釈迦様はここの私たちの世界にいらっしゃる、この世界で生きる意義をしっかり見つめなさい、と現実の世界に生きている意義を忘れることのむなしさを強調しています。
しかしながら、私もそうなのですが、この苦しみ悲しみの多いこの日常世界をとても安らかで素晴らしいお釈迦様の世界であるとみることは簡単ではありません。なぜなら私たちは世間のいろんな情報や自分の欲望に埋まって物事の本質をみようとすることが難しいのです。自分の辛さや悲しさが素晴らしいだなんてなかなか思えないものですし、そんな自分がいる世界を認めたくないのは当然です。
しかし、そんなどうしようもないダメだと思う自分や世界を捨てて、生きていくという  ことは学べません。まずはきれいでなくていいのです。仕事や経験で手や服を汚し、心を汚して傷ついてこそ学べるのです。中には心の傷が消えないものもあると思います。
それでも正しき教えを実行しよう、お釈迦様の目で物事をみようと心を磨き続ける姿勢が大切です。そしてその努力をし続ける姿が美しいのです。
お釈迦様は、あらゆるものの中に様々な心が互いに存在していると悟られました。それは、悪いことをする人の中にも仏様の心や様々な心が存在しているということ、
お悟りを開かれた仏様の中にも、人の心、地獄の心、様々な心が存在して、互いに関わりあっているということです。どんな人にも、人でない生き物にも地獄の心や仏様の心、様々な心が存在しています。それゆえに、人も生き物も自然もすべてが関わりあっているこの私たちの世界こそがお釈迦様のいらっしゃる世界なのです。
そんな世間と関わり、人と関わって、自分の知らなかった考えについてどんどん気づかされ、悩まされます。そして人と関わることは辛いこと悔しいこと悲しいことも多く経験しますが、それをこえての喜びもあります。
自分中心に一方向からだけで物事をみる考え方を改め、今まで知らなかった考えや、様々な心がある自分とその世界を真っ直ぐにみつめ、物事の本質をみていってこそ、心が磨けるのです。これが法華経のご修行、お釈迦様の見方に近づくご修行です。
そして、この私たちが日々生活している世間の中こそ、素晴らしいお釈迦様の世界なのだと感じることができるよう、ともに精一杯毎日を生きて、本年もよい年であったなと思えるような一年にして参りましょう。
本日は岡山市妙龍寺、松下祥真が担当させていただきました。
ご聴聞誠にありがとうございました。