皆様お早うございます。
今朝は岡山市北区建部町富沢 日蓮宗 成就寺住職広本栄史が放送いたします。
お経文に「常に生老病死の憂患あり」と説かれています。生、老、病、死とは生まれてきて、生活していく為にはいろいろなことがらに出合います。それには、いろいろな苦しみも伴います。生きていくことは大変なことだ。そのうち、知らぬ間に年をとっていく苦しみ。気がついたら思いがけない病がついていた。最期には臨終という時がやってくるという現実。こんな厳しいことは外にはありません。死にたくなくても、時が来れば死ななくてはならないのです。
たったひとつの尊いいのち、仏さまはいのちのあらわれ、草も木も鳥も魚もみんないのちを大切にして生きている。厳しい自然の中に生き抜くいのち。力強いいのち。不思議ないのち。このいのちの尊さを仏さまが教えて下さる。いのちを大切にする人間になろうと。
ところが今日、余りにもいのちを粗末にする人が多いことです。日本における15歳から34歳までの死因の第一位は「自殺」だそうです。昨年大津市の中学生の自殺をきっかけに次々と事件がありました。今年2月14日には大阪府大東市の小学5年生が、学校の統廃合の中止を訴えて自殺しました。大阪市の体罰等自らのいのちを絶つ子が減らない。子どもがいのちを絶たない方法はないものでしょうか。子どもから大人まで毎年3万人近い方々が自殺している。もっと世の中の人たちが、お互いいのちの大切さについて感心をもってあげなくてはいけないのではないかと。
或る大学生の父親が自殺した。彼は、お父さんの死に対して、生きていて欲しかったと悲しんでいました。世のお父さん、お母さん自殺だけはして欲しくない。あなたの為にも、家族の為にも、本当に家族のことを思うなら生きていて下さい、と訴えていた。生きていれば、解決策は必ずあると言うことを日頃から皆で伝えていかなければ、日本の自殺者は減らないのではないでしょうか。「弱かったから」「うつ病だから」との理由だけで片付けるのではなく、その人がなぜ弱い立場に立たされなくてはならなかったのか。あるいは、なぜ社会は弱い立場に立たされた人達を救うことができないのか。と考えることが大切だと思います。もっとまわりの人達みんなで、人はどんな思いで、みずからいのちを絶ってしまうのか。人はなぜ自殺するのか。自殺を防ぐためにはどうすればよいのか。など自殺の問題について話し合っていくことが大切だと思います。
そして一人一人に対して、もっと優しい社会であらねばこの問題は解決していかないのではないでしょうか。人間はたった一人ではとても弱いものです。だから、最後に必要なのは人と人とのつながりではないでしょうか。私が小学校六年生のとき、2級先輩の友達が、両親、兄、御家族全員結核で亡くなった。「自分ひとりになった。悲しい、淋しいので自殺しようと思う。」ときかされて驚きました。とっさに、「君が死ぬんなら、小坊主の僕はもうとっくに死んでいた。毎朝六時におきて梵鐘をついて、師匠についてお経を読み、本堂 客殿の掃除、冬には氷の張った水で廊下を雑巾がけ、手は霜焼け、あかぎれだらけ、血は出る、毎日泣きながらやってる。死にたいと思ったことも何回かある。だけど、死んだらおしまいだと自分に言いきかせ泣きながら頑張っている。」と話すと、「ありがとう。よし、僕も負けずにがんばるぞ。」と彼は中学を卒業するや、大工見習いのため親方の家に住み込みで修行をし立派な棟梁となった。その後、会う度に「あなたに励まされてがんばれた」と話してくれた。
江戸時代の国学者 塙保己一は、不幸にも六歳のときに目が見えなくなり、十二歳でお母さんと死別した悲劇の人でした。彼は生活のために、琴と鍼を習いましたが、賀茂真渕等について国文学を学んだところ、抜群の努力と非常な記憶力によって、国学だけでなく中国文学にも通じました。その彼が、雪の降るある日、平河天満宮へ参詣に出かけました。ところが折り悪しく高下駄の鼻緒を切ってしまったので、境内の版木屋に入り、「誠に申し訳ございませんが、そこで高下駄の鼻緒を切ってしまいました。なにかヒモでもいただけないでしょうか。」と店の人に頼みました。すると店の者は、さも迷惑そうに、目の不自由な彼の前にヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しました。するとその姿を見た店の者たちは、手をたたいて笑いあうのでした。さすがの彼もどうにもいたたまれず、鼻緒も立てずにそのまま悲しみを胸に抱いて店をとび出しました。
その後、年月を重ねて彼は苦心の「群書類従」という後世に残る立派な書物を完成しました。そしてこの本を出版することになった時、彼は版元としてこの版木屋を幕府に推薦したのです。かつての事など何も知らない版木屋の主人はただ彼に推薦の礼を述べると「いや実は、私が今日あるのは、あの時お店の方々が私にしめされた冷たい態度のおかげなのです。お礼を述べたいのは私のほうなのです。」と、見えない目に深い喜びを浮かべて語りました。「目が悪くても、笑われることのない、人に必要とされる人間になろう、そして生きる力のきっかけをあなたのお店の人達が与えてくれました」とお礼を言いました。店の人達も自分たちのいたらなさを深く恥じたことは言うまでもありません。自分だけでなく相手の心の目を開かせた 塙 保己一は立派だったのです。
お釈迦様は「生きるということは、生命を愛するということであり、生命を破壊することではない。生命を愛し、助けるために勉強するのだ。」と。人間がもっとも避けたいと思っている「死」はどんな人にも遠慮なく訪れる。このひとつだけを取ってみても人生は自分の思いどおりにはいかない。結婚だって、すばらしい相手だと思って一緒になっても、お互いに自我がありますから、決して自分の思い通りの結婚にはならない。好き同士で結婚したカップルならお互いに我慢して、表向きは平穏に暮らしてはいますが、胸の中ではストレスをためているのです。子どもだって親の思いどおりには生きてくれません。世間だってみんな自分の思惑とは違ってしまうのです。更に自分さえ、自分の思い通りになってくれません。自分ではそのつもりでなくとも、大切な時期に病気になったり、風邪で寝込んだり、人生の計画を狂わせていきます。人生すべて計画どおりには運ばないのです。海の塩水をぜんぶ真水にしたいと思ってもそんなことは無理です。ところが世の中には、塩水を真水に変えようと力んで生きている人が多いのです。どんなに力んでも、雨の空を晴れの天気に変えることが出来ないように、人生の事柄は計画どおりにいきません。人生には変更がつきものなのです。同じ人生を、もし人よりうまく、幸せに生きることができるとすれば、それは計画の変更をうまくできた人ということがいえるでしょう。人生すべからく調整能力の優劣で決まるといっていいでしょう。
ご清聴ありがとうございました。今朝は、岡山県北区建部町 日蓮宗 成就寺住職 広本栄史が放送いたしました。