皆様おはようございます。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘がお話いたします。
 私がこの仏教アワーの時間にお話をさせていただくのは、確か六回目になります。今回は何と言っても、この三月十一日に発生した東日本大震災について何か申し上げなければと思いました。
 五月上旬で確認されたところによりますと、震災・津波のために亡くなった方が一万四千八百人あまり、また行方不明者の方が一万人になるということです。この中には、一家全員が亡くなられたり、依然として行方不明の方もおられます。また、お子様をなくされた両親、あるいは親を亡くされた子供さんなどなど、様々な形で家族・親族を失った方々は、それぞれ深い悲しみに沈んでおられることと思います。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 
 去る四月二十八日は「四十九日忌」をむかえました。テレビでは、御遺体が発見されたと見受けられる瓦礫と化した住宅の跡地でお花やお線香をお供えし、手を合わせている被災者の方々が放送されました。また、津波で多数の人々がさらわれたであろう三陸の海にむかって合掌し、お経をあげている僧侶たちの姿も見られました。あらためて津波災害の恐ろしさ・痛ましさを実感した所でございます。私たち日蓮宗の全国各地の寺院・教会・結社におきましても、亡くなられた諸霊位にたいして、様々な形で御回向を捧げました。
 このような儀式・法要の最後にお唱えする祈りの言葉を回向文と言います。すなわち、法華経を読誦し、お題目を唱えて集めた功徳、その功徳を亡くなられた方に回し向けて、迷うことなく仏の世界に到達されますように、という祈り・願いの言葉が回向文なのです。この回向文は文語になっていますので、いささか分かりにくいかと思われます。そこで四十九日の回向文の内容を口語調に言い換えてご紹介してみましょう。
 
「本年、三月十一日、東北地方の太平洋沖で、突然、巨大な地震がおこりました。それは広い海を揺るがし、大きな津波となって国土を襲いました。津波は多数の人々をのみ込み、建造物を押し流し、市街地はことごとく消滅してしましました。それだけでは収まらず、原子力発電所で重大な事故が勃発しました。まさに未曾有の国難と言えましょう。このような時、命を落としたり、行方がわからなくなった人々の苦しみは、計り知れないものであります。
 人間の世界における別離ということに思いをめぐらしてみれば、生れてきた人は皆必ず死ぬという道理から免れることはできません。とはいえ今この現実に直面すると、それを受け入れることは難しく、哀悼の涙がこぼれます。静かに人生の浮き沈みを思えば、心は憂いに沈み、耐えがたいほど身をさいなまれます。この世が本当にはかないものであることは、例えれば朝の露が日に当って一瞬のうちに消えてしまうのに似ています。風の前の灯(ともしび)が消えやすく、芭蕉の葉が破れやすいのと同じです。最後には吐く息は吸い込む息を待つことはありません。
  今、この四十九日の法要にあたり、逝去された精霊を思い、法華経を読誦し、お題目をお唱えすることによって、速やかに霊山浄土へ導きましょう。この法華経の功徳は限りがなく、それを聞くだけで、一人として仏に成らない人はありません。
  願わくばこの善き力によって、様々な迷いの雲を払い、智慧の光を放つ覚りの月を明らかにして、永遠の仏の国土に到達されますように。
  また、あわせて願わくば、このたびの震災によって、被災された方々の心も体も、仏の慈悲に護られている功徳・お陰によって、十分に回復され、今この世界で安らかに過ごし、さらに将来の不安もない境地に導かれますように。」

 以上、さる四月二十八日、東日本大震災当日から数えて四十九日にあたる日に、日蓮宗の各寺院などで法要・あるいは朝夕のお勤めの時に捧げた回向文を紹介いたしました。

 仏教者として、今回の震災をどのように受け止め、対処していくか、ということを考える時、鎌倉時代に日蓮聖人が『立正安国論』の中で述べられた有名な言葉が指針なると思います。聖人は1260年、正しい仏教が行われてこそ、国の平和が実現するという確信・信念を表明した『立正安国論』を当時の幕府に提示しました。異常気象や疫病・大震災が相次いで起こった当時の社会・世相を目の当たりにした聖人は次のように説き諭しておられます。

 「国を失い家を滅せば何(いず)れの所にか世を遁(のが)れん。汝須らく一身の安堵を思わば、先ず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべき者か」
 「国が失われ、家が滅んでしまったら、一体どこに逃げる所があるでしょうか。あなたが自分の身の安全を願うのであれば、まず、周囲の世の中の静かな生活を祈るべきです。」
 つまり、仏教者というものは、さとりを求めて修行し、個人が救われることを祈ればそれでだけでいいというわけではなく、そのような仏教が存続することが可能となる社会の安泰をまず願いなさい、と説いているのです。社会が平和にならなければ、個人が救われることはありません、というのが、日蓮聖人の立場です。
 
 それでは具体的に私たちができることはなんでしょうか。そのひとつに電力の問題があると思います。このたびの震災・津波によって原子力発電が非常に危険な存在であることがあらかになりました。原発というものは、現在だけでなく、使用済みの核燃料をどのように保管するか等々、将来にわたって大きな負担となるものである、ということを思い知らされました。
 今週は中部電力の浜岡原子力発電所が運転停止になることが決まりました。この夏の電力不足を心配する声もあるようです。しかし、私たちは便利さ・快適さを追求して、必要以上に電気を使い過ぎていると思います。人間の欲望には限りがありません。それを刺激し、拡大することによって経済が発展してきたわけですが、それで本当にいいのでしょうか。自分が欲しいもの、求めるものをすべて手に入れることができれば、問題ないわけですが、そのようなことはもちろん不可能です。
 仏教では、八種類の苦しみ、四苦八苦の八苦ということをいいます。そのなかの一つが「求不得苦」という苦なのです。求めても得られないときの苦しみ、ほしいものが手に入らないときに感じる苦痛、これが「求不得苦」です。お釈迦様は、この苦しみについて、ほしいという欲望を抑えることで、鎮まると教えています。欲を少なくし、手に入るもので満足することは、仏教徒の基本的な生活態度なのです。これを四字熟語でいえば、「少欲知足」となります。少欲すなわち「少しの欲」で知足すなわち「足るを知る」というわけです。
 電力が不足するかもしれないということは、自分たちの生活を見直し、反省してみるいい機会であると捉え、前向きに対処していきましょう。その時に「少欲知足」、欲を少なくし、足るを知る、という言葉を思い出して下さい。

 本日は、瀬戸内市長船町福岡の日蓮宗妙興寺、岡田行弘がお話いたしました。