皆様、おはようございます。今朝も元気にお目覚めの事と存じます。今朝は、赤磐市周匝にあります、日蓮宗蓮現寺住職の堀江宏文がお話をさせていただきます。
 私どもの毎日の信行生活において、拝むという礼拝の基本となる姿は合掌です。合掌とは文字通り、「たなごころ」、つまり手のひらを合わせることです。手のひらを合わせている以上、隙間が空いていてはいけません。ぴたりと合わせるからこそ合掌なのです。なかにはお経本を持ちながら、片手で合掌するという方を見かけることがありますが、片手では合掌にはなりません。これを片手合掌という人もいますが、おかしな言葉です。今朝は皆様も是非、ご一緒にやってみて下さい。
 先ず両手をぴたりと合わせ、指をまっすぐにのばして、合わせた手のひらが膨らんだり、隙間を空けたりせず、また、指と指を組むようなこともせず、胸と手首のところにタマゴ一個分の隙間を空け、指先をあごのところにあて、そのまま前へ少したおし、肩の力をぬいて力まないようにします。この姿は、ほかに何もすることが出来ません。何も出来ないようにして、一心に祈る姿、それが正しい合掌の姿なのです。
また、合掌は十指を合わせることでもあります。そこには深い意味が見出されます。十指とは十界をあらわします。十界については、ご存知の方も多いかと思いますが、下の方からみて、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種類の境地をいいます。これは人の心のはたらきや境地を、十種類に分けたものです。
 「地獄界」とは憎しみや怒りの心のありさまです。心身の病気のもととなるもので、苦しみが最もはげしい境地です。
 「餓鬼界」とは貪りの心のはたらきです。心の貧しさをもたらすもととなるもので、常に飢えと渇きに苦しみ、止むことのないものです。
 「畜生界」とは愚痴、おろかさの心のありさまで、他人との不和をもたらします。
 「修羅界」とはあらそい事をする嫉妬心の強い心のありさまで、いろいろなわざわいのもととなります。
 「人間界」とは善悪の岐路にある心のありさまで、苦しみと楽しみを公平に受ける心の境地です。
 「天上界」とは自ら喜び他人の幸福をも喜ぶことのできる、神々のような心のありさまです。
 「声聞界」とは仏さまの教えを聞いて正しい道を修めますが、利己的な心のありさまを意味します。
 「縁覚界」とはものごとの因縁を観じて無常を悟り、自分一人の救いに楽しむ心の境地です。
 「菩薩界」とは他人と共に真実の自覚と幸福を得ようと願う心のありさまをいいます。
 「仏界」とは自らも悟り他の人々をも悟らせるという救済のはたらきで、極まり満ちている心の最高のありさまをいいます。
 この十界のうち、地獄界から天上界までは人の顔にあらわれます。嬉しいときは皆顔をほころばして喜びをあらわします。腹を立てているときはいささかすごみのある顔色になります。欲張っているときは眼をひからせて「欲しい、欲しい」という引きつった顔になります。愚かになっているときはデレデレとだらしがなくなります。争うときや高慢なときは、それぞれの顔付きが現れてきます。つまり心の内にあれば心の外にあらわれるということです。この六種類の境地は劣った心、迷いの心のありさまと教えます。
 日蓮聖人は「瞋は地獄、貪るは餓鬼、おろかは畜生、諂曲なるは修羅、平らかなるは人、喜ぶは天」と教示されています。私たちは日常の生活において仏や菩薩のような慈悲の心が生じることもあります。眼の前で困っている人を見かけると「助けてあげたい」という気持ちが起きます。いわゆる「ほとけごころ」です。しかし、怒り、貪り、殺生、といった心が生じるときもあります。そして苦しみのどん底に沈むこともあります。私たちの一瞬一瞬のひとおもいの心の中に、悟りの心も迷いの心も、十界の全てがまどかに具わっているからです。
 しかし、私たちが如何なる境遇、如何なる状態におかれても、たとえ地獄の心のものでも、菩薩の心のものであっても、その源である一念の心、すなわち一心という菩提心を起せば、如何なる傾いた環境の中からでも仏の心を生み出すことができるのです。したがって十指を合わせて行う合掌は、自分が十界のどの心のありさまの中にあったとしても、一心の本体である仏の心を成ずることの出来る、正しい機縁を与えてくれるのです。一刹那として移り変わっていく私たちの乱れた心を、一心に統一することが、合掌の姿でもあります。それは一所懸命の心でもあり、命を懸けるということでもあり、真心を尽くすということでもあります。
 とんちで有名な一休禅師の問答(もんどう)に次のような話があります。
 「極楽は西にもあれども東にも 北(来た)道探せ南(皆身)にもあるぞ」と、一休禅師が云いますと、武士が、「あなたはいつも地獄極楽の話をするが、地獄極楽は存在するだろうか」と尋ねました。一休禅師は「地獄極楽は、あるようであって、ないようでもある」と答えます。何度たずねても同じ答え。武士はおこりだして刀の柄(え)に手をかけました。一休禅師は、「その姿こそまさに地獄じゃ」と。武士は自分の姿に気づいて平伏したそうです。地獄極楽は心のありようで決まるのです。
 日蓮聖人は「浄土と云い穢土と云うも土に二つの隔てなし只我等が心の善悪によると見えたり。・・・迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」とお教えです。住みにくい汚れた土地も、浄らかな土地も、もともと土地に二つの隔たりがあったのではなく、その土地に住む人の心の善悪によるものだということです。そこに住む人の心が浄らかであればそこは浄土になります。しかし、その人の心が鬼であれば、浄土も地獄に変わってしまいます。私たちは地獄の世界、苦しみの世界を自分たちで作ってしまっていることを知るべきです。幸せも浄土も、その人の心の中にあり、私たちひとり一人の心のありよう次第なのです。他の場所に浄土を求めるのではなく、この地を離れて浄土も幸せもありません。このことを忘れずに住みよい安らかな国づく、社会を作るように努力してまいりましょう。
 今朝は、赤磐市周匝、日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話いたしました。