ラジオをお聞きの皆様、おはようございます。今日は、日蓮宗不変院住職、秦宏典がお話しいたします。
 私は、三月の初頭、十人ほどのお上人方と共に、岩手県の花巻へ、宮沢賢治ゆかりの地を訪ねる旅に行って参りました。今年は二月の気温が異常なほど暖かく、北の方へ向かう旅の準備には少し困惑いたしましたが、現地へ着くと、心が洗われるほど白一面の景色が私達を迎えてくれました。小型の観光バスに乗り合わせ、ガイドさんの案内を聞きながら、羅須地人協会、宮沢賢治の家、記念館、イーハトーブ館、童話村、林風舎と見学していきました。 実は、旅行に先駆けて宮沢賢治に関する研修会も開かれました。その意気込みが伝わっていたのでしょうか、ガイドさんもいつも以上に準備をしてくださって、熱のこもった案内をしてくださいました。
 次の日も、日蓮宗の身照寺様にご供養されている、宮沢賢治のお墓にお参りして、ご住職から資料には載っていないようなお話を聞かせていただきました。そして、地元の方のお人柄の良さや、雪を見ながらの素晴らしい温泉の余韻を残しながら、二泊三日の旅を終えました。
 その時教えていただいたことの中に、宮沢賢治の童話や詩は、法華経の教えを基盤にしていると言うことです。それ以来、宮沢賢治のことをもっと知りたくなりまして、まずは有名な『銀河鉄道の夜』を読み返してみました。すると、何気なく読み過ごしていた重要な言葉がたくさん見つかりました。
 特に、この作品の中には、みんなの本当の幸ということについて考えている場面が随所に出て参ります。ご紹介いたしますと、
 まずは、お母さんを心配するカンパネルラのことばです「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」と自分の決断に迷います。ところが
「ぼくはわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」とついに決心します。
 それから、沈んだ船の子どもを助けようとして亡くなった青年に対して、ジョバンニは「ぼくはそのひとのさいわいのためにいったいどうしたらいいのだろう。」とふさぎこみますが、灯台守は「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」と慰めました。
 次に、星座になったサソリのことばです「こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。」というと、いつしかサソリは自分のカラダが、真っ赤な美しい火になって燃えて夜の闇を照らし続けていました。
 そして終盤では、汽車から乗客が徐々に降りて行き、ついにジョバンニとカンパネルラの二人だけになりました。「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」「うん、ぼくだってそうだ。」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」結局その答えはわからないままでしたが、ジョバンニには新たな力が湧いて来ました。
「僕もうあんな大きな闇の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」「ああきっと行くよ。」そう約束したカンパネルラさえも、汽車からついに消え、ジョバンニはひとりぼっちになります。その時ジョバンニは目が覚めて、現実に戻るのです。
 銀河鉄道の乗客が降りていったそれぞれの駅は、それぞれの乗客が信じる幸だったのでしょう。ところが、その人にとって、本当の幸とは何だろうか。もっといちばんの幸を求めて、自分とどこまでも行きましょうとジョバンニはうったえます。
 実は、ジョバンニの切符は、自分では気付かなかったのですが、赤い帽子をかぶった背の高い車掌さんに検閲されて、「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。」といわれる程凄いものでした。
 最初に宮沢賢治の作品は、法華経の教えを基盤としているとお話しいたしましたが、この切符こそが法華経のことだったのです。
 賢治が生まれた家は、熱心な浄土真宗の家でした。それどころか、その村中の人が真宗の信仰者であり、少しでも違うことをすれば、村八分になるようなところだったそうです。賢治が法華経に初めて出会って感動して、その教えをみんなの幸のために弘めようと思っても、とんでもないことであったことが想像できます。しかし、その困難にも賢治は勇敢に挑んでいったのでした。その姿こそが、菩薩行であります。しかも常に相手のことを敬い、けっして分け隔てしない姿は、まさしく法華経の第二十番目のお経にございます、常不軽菩薩の但行礼拝のお姿でありました。
 では、常不軽菩薩とはどんな菩薩様かと申しますと、はるか昔のこと、常不軽というお坊さんがおられました。このお坊さんは、お経を読むことよりも、ただ人々に向かって礼拝しては、「私はあなたを敬います。なぜならば、あなた方はみんな善い行いをして。必ず仏さまに成る尊い存在だからです。」と唱えました。たとえ離れている人でも近寄っていって礼拝し、そう唱えました。このお坊さんは誰をも軽んじることなく、分け隔てなく全ての人を敬いました。ところが、そのようにされた人々は「おまえのようなものにそんなことを言われても、けっして受け入れないぞ。」と罵りました。それでも怒ることなく続けておりますと、人々は棒で打とうとしたり、石を投げつけてきました。お坊さんはその場から急いで離れ、そこから大きな声で、「私はあなたを敬います。なぜならば、あなた方はみんな善い行いをして、必ず仏さまに成る尊い存在だからです。」とひたすら人々を礼拝し続けました。そしてついにそのお坊さんは、仏になられたのです。
 どんな人に対しても分け隔てなく礼拝して敬う姿を、但行礼拝といいます。今の乱れた時代だからこそ、相手を思いやり、一人ひとりの命を敬う心を育てていかなければなりません。子ども達にも伝えていかなければなりません。その実践の方法を提案いたします。あいさつの時には両掌を合わせましょう。恥ずかしがらず堂々と合掌しましょう。それから、御礼を言うときは感謝を込めて合掌しましょう。謝るときも素直に合掌しましょう。お願いするときにも、謙虚な気持ちで合掌しましょう。楽しいときも辛いときも祈りを込めて合掌しましょう。子ども達にも魂が伝わるように、願いを込めて合掌しましょう。初めは何事も一人からです。その輪が広がって、やがて山となり、海となります。どうか今こそ最初の一歩を踏み出しましょう。南無妙法蓮華経
今日は、日蓮宗不変院住職、秦宏典がお話しいたしました。ありがとうございました。