皆様おはようございます。今朝もお元気でお目覚めのことと存じます。今朝は、岡山市建部町・日蓮宗成就寺住職・広本栄史が放送いたします。
 さて4月と申しますと、私たち仏教徒にとって二つの大切な行事があります。その一つは、4月8日のお釈迦様のお誕生日です。二つ目は、4月28日の日蓮宗開宗会でございます。
 お釈迦さまは、今から約2500年前、紀元前564年、インドでお誕生になりました。何不自由ない生活を送っておられましたが、日一日と考えに沈まれる日が多くなり、老人になるとは、病気になるとは、死ぬとは、といった問題から次々と悩みが深まってまいりました。そしてついに出家され、修行を重ねられました。その結果、35歳の12月8日「成道」すなわち、お悟りを開かれたのです。以来、80歳の2月15日、御入滅まで8万4千の法蔵と言われるたくさんの経典をお説きになりました。
 また日蓮大聖人は、貞応元年2月16日、千葉県安房の国小湊で御誕生になられ、12歳の時、地元清澄寺に入られたのです。16歳の時、出家され「虚空蔵菩薩」に「日本第一の知者となさしめ給え」と祈り、日夜勉学にいそしまれました。そしてお釈迦様の説かれた8万4千の経典を研鑽するため、鎌倉、比叡山、三井寺、奈良の諸大寺、高野山など、当時の仏教研究の殿堂を歴訪され、血のにじむ努力を32歳まで続けられました。
 十有余年にわたって研究した結果、法華経にのっとる天台宗こそ、お釈迦様のみ教え正しく伝えている唯一の宗教であり、末の世、仏法のすたれた時代の人々を導き、国を救うことのできるお経こそ「法華経」であることを確信し、体得されたのです。
 時あたかも、建長5年(1253年)4月28日、32歳の日蓮大聖人は、春の日差しがさんさんとふり注ぐ清澄寺、持仏堂の南面で「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と十遍ばかり唱えられ、法華経信仰の旗じるしを高く掲げられたのです。その時、「我、日本の柱とならん。我、日本の眼目とならん。我、日本の大船とならん」と、人々の心の救済と社会の浄化を目指されたのです。ここに立教開宗、すなわち日蓮宗が開かれたのです。
 そのみ教えは、南無妙法蓮華経を受持することは身(からだ)、口(言葉))、意(こころ)にわたってお題目を信じ、持つことです。
 南無妙法蓮華経とは、法華経そのものであり、法華経のエキスであり、久遠の本仏のことである点を、十分に自分に納得させることが「意業」こころのわざです。
 南無妙法蓮華経と一度発音することは、法華経の序品第一から普賢菩薩勧発品第二十八までの二十八章、六万九千三百八十四文字を一度読んだことになることをよくよく心すべきです。法華経を一度読んだということは、法華経を一度説いたということなのです。南無妙法蓮華経と唱える声を、もし十人の人が耳にしたならば十人の人に法華経を伝えたことになるのであり、または法華経を十回説いたことになるのです。
 この点をよく理解していれば、お題目を一度唱えるにも十分心して唱えなければならない点がご理解できると思います。
 口でもってお題目を受持する「口業」とは、南無妙法蓮華経と一度唱える題目が、法華経二十八品を説いたことになる点を意識しつつ、空題目ではない、心のこもったお題目を唱えましょう。お題目を身を以て実行する「身業」とは、お題目を唱えている時の気持ちをふだん持ち続けることです。空題目ではない、心のこもったお題目を唱えている時の境地、それこそ身体そのものは汚れた肉体であるにしても、そこには、久遠の本仏がやどっているのであり、仏になりかわって法華経を弘めているのです。
 その境地、その時の心をもって実際生活のすべての問題、事件、日常に対処することが、とりもなおさず、身体によるお題目の実践なのであります。
 未来永劫にわたって説法教化し続ける久遠の本仏、お釈迦様に帰依して、唱題することが、久遠の本仏と一体となることであり、限りある命として悠久の生命たらしめる唯一の方策なのです。
 この南無妙法蓮華経を、身、口、意の三業にわたって実践された方が、明治時代の高僧・綱脇龍妙上人というお方です。
 山梨県に日蓮宗総本山身延山久遠寺があります。明治39年(1906年)10月12日。身延山内身延川沿いの敷地に、ハンセン病患者収容のため「深敬園」を建てられたのが綱脇龍妙上人です。綱脇上人は法華経に説かれる「絶対平等」「人間礼拝」を座右の銘としていたのです。
 だれにでも仏心があります。その仏をすべての人に見て合掌礼拝した常不軽菩薩の言葉「我、深く汝等を敬う」という教えに深い感銘を受けていたのです。
 綱脇上人は、明治9年(1876年)福岡県で農家の次男として生を受けました。小学校を終えるや肺結核になり、医師から余命3年と宣告されました。母は、一生懸命に看病し、菩提寺の法性寺で快方を祈りました。奇跡的に回復。母は一度死んだかもしれない我が子。その余命を仏さまに捧げようと決意し、龍妙上人を仏門に入れたのです。
 東京堀之内・妙法寺の茗荷谷学園から大学へ通いました。ある日、友人3人で身延山に行き、日蓮様のお墓にお詣りしました。路傍から川原にかけていくつかの粗末な小屋がありました。その一つの小屋から12、3歳の少年がなつかしげに現れました。
「君、どうしてここにいるんだい」
「はい、ボク、ハンセン病という病気になってしまったんです。身延に行くとお祖師様っていう人が治してくれるっていうので、山形からきました」
「ほう、ボクは一人でここに来たのかい」
「そうです。お父は2年前に死んだ。お母は病気、姉が身を売って旅費をくれました」
「大変だなあ。ボク、がんばれよ」  
 龍妙上人の目からは止めどなく涙があふれ、衣を濡らしました。綱脇上人は、隣の小屋、次の小屋へと片端から訪ね、事情を聞いたのでした。
「このまま放置してしまえば、彼ら彼女らを看病する人はなく、身体は腐るがままに死んでしまう。されど、私に何ができるというのだ。いったい、どうすればいいのか」
 自問自答するうちに、その日は暮れました。翌朝、団扇太鼓を一本持ち、御廟所に別れを告げる読経をし、お題目を唱え始めると、内から「ナントカシテヤレ−、ナントカシテヤレ−」という声がします。しかし、一方で東京に帰り、学業を続けて目的を達成しなければならないという念が頭をよぎります。
「どうすればいいのだ。そうだ、私は坊主だ。他人を救うことが、私にできる仕事だ。彼らの一人でも救おう。待っていろよ」
 と、意を決して上京しました。
 東京に着いてからは、学業もそこそこに内務省を幾度も訪ね、また身延山法主様に直談判して、協力を得、身延山敷地に仮病棟一棟が建てられたのが深敬園です。
 今、岡山県に長島愛生園、長島光明園があります。綱脇上人は、両園に再々こられてご指導されました。
 私たちもお互いに助け合い、励まし合い、みんな仲良く楽しい人生を送りましょう。
 今朝は、建部町成就寺・広本栄史が放送いたしました。