皆様おはよう御座います。本日も早朝から仏教アワーをお聞き下さり、まことに有難う御座います。今朝は、倉敷美観地区にあります、日蓮宗・本栄寺住職の安井智晃がお話させていただきます。暫くのあいだお付き合い下さい。
 連日三十五度以上の猛暑日が続いたお盆も終わりましたが、厳しい残暑が続いています。お盆は終わりましたが、あと少しでお彼岸が始まります。我々僧侶にとってはまだ忙しい日が続きます。
 私は今年の二月に同じ日蓮宗のお坊さんや檀家さんたち約三十人と一緒にインドに行って来ました。インドはご存知の通り仏教発祥の地です。約二千五百年前、お釈迦様は、今のインド北部のブッダガという地で悟りを開かれ、ここに仏教が誕生しました。この悟りの地「ブッダガヤ」の他に、誕生の地で、今はネパールという国にある「ルンビニー」。初めて教えを説かれた地「サールナート」。そして、お釈迦様が八十年の生涯を閉じられた入滅の地「クシナガラ」。これら四つの場所は仏教の「四大聖地」と呼ばれ、世界中から熱心な仏教徒が巡礼に訪れます。私たちが行った時も、日本の他の宗旨の方や、アジアや欧米の仏教徒がたくさん巡礼に訪れ、それぞれのお釈迦様の聖地で熱心に祈りを捧げておられました。また、今回のインド旅行では、ベナレスという場所にも行きました。ベナレスはインド人の大部分が信仰しているヒンズー教の聖地ですが、多くの日本人には「ガンジス川の沐浴の場所」と言った方が分かり易いかもしれません。ヒンズー教の教えによると、ガンジス川の聖なる水で沐浴すれば、全ての罪は清められ、この街で死んで遺灰を川に流せば、苦しみの輪廻からの解放、解脱を得るといわれます。これはヒンズー教徒にとって最高の幸福で、そのために、インド全土から年間百万人を超える巡礼の人が訪れ、その中にはここで死ぬことを目的としている人もいるそうです。私はもちろんヒンズー教徒ではありませんが、今回の旅行では、ガンジス川の沐浴に挑戦してきました。夜明け前に船着場から舟に乗り、たくさんのインド人が沐浴しているのを見ながら、自分たちの沐浴場所を探しました。ガイドさんにすすめられた場所に着きましたが、日本人の我々には、川の中に入るのが、かなり勇気のいる場所でした。ガンジス川はインド人にとって聖なる川ですが、沐浴の他にも、洗濯や洗面の場所でもあります。当然色々なものが浮かんで流れています。かなり躊躇しましたが、覚悟を決めて川の中に入りました。いくらインドでも二月の水は冷たく、川底は足が沈んでいくような感触です。お経とお題目を唱えたあと、インドの人の作法通り、両手で川の水を頭の上に掲げ、頭まで三回水の中に入りました。入る前は恐る恐るでしたが、入って沐浴してみれば、何ともいえないすがすがしい気持ちになりました。まわりを見回しても無数のインド人が、心から有難そうに、熱心に祈りながら沐浴を行っていました。そして、さすがは聖なる川です。お灯明のローソクや花、お供えものは流れていても、ペットボトルや空き缶は一つも流れていませんでした。日本の川とは大違いです。インド人にとってガンジス川は沐浴の他にも、遺灰を流す場所でもあります。死体を灰にするには火葬にする必要がありますが、その火葬場もガンジス川にあります。写真やビデオ撮影は出来ませんが、私も舟から火葬の様子を見ました。インド人は、お金持ちも貧乏人も、政治家も学者も社長もホームレスも、都会の人も田舎の人も、みんな自分が死ぬと、体を火葬にして、その灰をガンジス川に流して欲しいと、心から願っているそうです。あの有名なマハトマ・ガンジーも、火葬の後遺灰はガンジス川に流されたそうです。自分や家族が死ぬと、その遺灰を川に流す。我々日本人には、そのことを本当に理解することはなかなか難しいと思いますが、インドの人は、何百年、何千年も幸せを願いおこなってきたことです。最近日本でも少し話題になった「自然葬や散骨」とは、歴史も重みも考えも、比較にならないと思います。
 ところで去年の今頃は「千の風になって」という歌が、聴かない日が無いというくらいとても流行っていました。私も大好きな歌ですが、その中に「私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。眠ってなんかいません」という歌詞が出てきます。私はこの歌を聴くたびに、その歌詞のところだけ、何かとても違和感を感じていました。ほかのお坊さんとよく冗談で、「これだけ人気のある歌だし、日本人はすぐに影響されやすいから、お墓参りをする人がいなくなるかもしれないね」と話していましたが、そんな心配もなく、今年のお盆も猛暑の中、たくさんの方がお墓にお参りして、熱心に手を合わせる姿をお見かけしました。インドの人々が、何百年も前から、ガンジス川に沐浴すれば罪が清められ、死んで灰を流せば苦しみから解放される、と理屈ではなく、心からそう信じているように、我々日本人も、死んで魂は仏様の世界へ行っても、遺された遺骨を大切に供養し、お墓を掃除して手を合わせる、と何百年も前から信じてお墓参りをおこなってきたと思います。それは理屈や教義ではなく、日本人独自の素晴らしい文化であり、風習であり、DNAだと思います。これからもずっと大切にしていってもらいたいし、私自身も大切に実践していかなければと思いますが、お盆のお経の際、こんな質問がありました。「お盆の間は、先祖は家に帰っていてお墓は空っぽのはずなのに、どうして空っぽのお墓にお参りするんですか?」 おそらく半分冗談で聞かれたのだと思いますが、確かに理屈で考えるとそうなのかも知れません。しかしそれが正しいのかといえば、私はそうは思わないし、そもそも、お墓参りや、先祖の供養、仏様に手を合わすという行為は理屈で考えられるものではないと思います。インドの人がガンジス川で沐浴をしたり、遺灰を川に流すのも、理屈ではなく、そうすれば救われる、苦しみから解放されると心から信じておこなっていることです。これを「信心」といいます。
日本人の我々が、仏壇や神棚に手を合わせるのも、お寺にお参りするのも、すべて「信心」の表れです。なぜ「信心」するのかは理屈では説明出来ないし、そうする必要もないと思いますが、あえて理由を説明するなら、それは「仏様が喜ぶから」ではないでしょうか。「どうしてお墓参りをするのか」も同じです。亡くなったお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、夫や妻や子供、自分の身近で亡くなった人、自分のご先祖様、そんな人たちが、お参りすると喜んでくれるから、ではないでしょうか。我々日本人は昔からそれをとても大切に考え、親は子に、子は孫に、連綿と伝えてきました。これからも伝えていくことと思います。伝えていくのは、今このラジオをお聞きのあなたや私です。もうすぐお彼岸がやってきます。自分たちが昔、親やおじいちゃんおばあちゃんと一緒にお墓にお参りしたように、お子さんやお孫さんと一緒にお参りしてください。そして、どうしてお墓参りをするのか尋ねられたら、「お参りしたらみんなが喜ぶから」と教えてあげて下さい。
本日は倉敷の日蓮宗本栄寺住職、安井智晃がお話させていただきました。最後までお聞きくださり有難う御座いました。