おはようございます。
今日は岡山市三門東町にあります日蓮宗妙林寺副住職、小埜栄輝がお話させていただきます。
 日蓮聖人六十一年間の御生涯の中で大難中の大難といえば、文永八年九月十二日、日蓮聖人五十歳の時の「龍ノ口の御法難」でありました。
 鎌倉龍口の刑場で九死に一生を得、佐渡ヶ島に流罪の身になられた日蓮大聖人、いつも師匠のそばにおられた弟子の日朗上人は、鎌倉の長谷の土牢で囚われの身だったのであります。
 その時の日朗上人の「牢番人」というのが、鬼といわれるくらい誰からも恐れられた人間だったのです。
 日朗上人は自分の御師匠様があの遠く離れた、寒い佐渡ヶ島に流されたことをものすごく辛く思っていたわけです。
 だから牢番人が運んでくる食事もひとつも自分の口に入れることは一度もなかったわけです。
 その老牢番人の運んでくる食事を、牢の端に自分で作った日蓮聖人の御尊像を安置し、その御尊像に毎日、毎日、自分の食事を影膳として供えていたというのであります。
それが、毎日、毎日続いていく、みかねた鬼の牢番人が
番 「お前、身体こわすぞ! バカなことをやってるんじゃないよ!」
朗 「いや、私が食べるわけにはいかないのです。あの寒い、あの寒い佐渡ヶ島でご辛抱して、ご苦労されている御師匠様のことを思ったら、私は食べられません。」
 そういって、毎日のように続けられるわけです。
 その姿を、鬼の牢番人が牢の外からじーーと毎日眺めているのです。
 そのうちにあの、あの鬼の牢番人目から、一筋の涙が流れたというのです。
番 「なんてお前は、御師匠様思いなんだろうか。こんな弟子を見たこともない、初めてだ。」
 素晴らしい光景に巡り会ったと、あの鬼の牢番人が涙を流して、涙を流して見つめていたのであります。
 ある時、その牢番人が日朗上人の所に行き、
番 「お前はそれ程までして御師匠様のことを思っているのか?なんてすばらしい。
   よしわかった!お前一目だけでも御師匠様に会ってこい。俺が代わりに牢の中に入ってやる。」
 と鬼の牢番人が牢の中に入ってくれました。
朗 「かたじけない・・・・」
 そう牢番人にお礼を言った日朗上人、牢を出たのであります。
 そして、牢を出て、鎌倉からあの佐渡ヶ島の方向にじーーと目をやりながら、遠く海を眺めていた時に、お題目を唱えていたのです。
 あの荒海の中、佐渡ヶ島まで手船で行くというのは本当に辛いものがあります。
 あちこちに流されながら、日朗上人の身体はほとんど何も食べていない身体。
 船の中でゆられ、だんだんと身体が衰弱していくうちに、やっとの思いで佐渡ヶ島にたどり着いたのです。
 そして、これから日蓮大聖人のいらっしゃる「塚原三昧堂」を探さなくてはならないのです。
 まさに、日朗上人の背丈ほどの雪が積もり寒さで身も凍える中、日朗上人は自分の手でその雪をかきわけ、お題目を唱えながら一歩、一歩御師匠様のいらっしゃる塚原三昧堂をさがすわけです。
 手足は凍傷にかかってくる。衰弱しきった身体をひきずり、意識はもうろうとする中、一歩、一歩と足を進める日朗上人。
 ある時、ガケにガタッ、ガッターと足をすべらせ崩れ落ち、ころころころがる日朗上人。
 もがけばもがくほど雪は身体の小さい日朗上人を埋めていくのです。すっぽりと雪の中に見えなく なってしまった日朗上人。しかしお題目だけは唱え続けるのです。
 だんだんお題目の声も虫の息のようになってきます・・・。
 ちょうど、そこを通りかかった二人の夫婦が、耳をすますと、まさに、ガケの下の雪の中から、お題目の声がかすかに聞こえてくるじゃありませんか!
 二人はガケをぐるりと回り、お題目の聞こえる場所を確かめ、必死になって雪をかきわけますと、中からかわいい頭がでてきたのです。二人で混信の力をだして引っぱり上げると、気を失いかけたかわいい坊さんの姿じゃありませんか!
 ○○パンパン ほっぺたを数回たたかれた。
うっすらと目をあけられた日朗上人
朗 「あーーまだ死ななかったのですか? 一目御師匠様に会うまではと・・・」
二人の者は
二 「今、あなたが唱えていたのはお題目ですね!
   あなた様が日蓮大聖人のお弟子の日朗様ですか?」
朗 「はい、私が日朗と申します。鎌倉の長谷の土牢から出て参りました。」
  と、涙を流されたのです。その二人の者は、
二 「私は阿仏坊、千日尼でございます。あなた様の御師匠様に毎日お給仕をさせて頂いているものです。 もう、日蓮大聖人はすぐそこに居られますよ。さあ、 さぁ どうぞ」
 その時の日朗上人の喜びの顔ですよ。
 二人の者に肩を借りて、やっとの思いで大聖人のいらっしゃる塚原三昧堂につかれた。 
 大聖人、お経をあげているさなかでした。 
千日尼が
千 「大聖人様、大聖人様 いつも申されているあの日朗様が参りましたよ!そこに参られましたよ」
 大聖人ゆっくりお経を止められ、くるりと回って日朗上人の方をじーーとご覧になって、

聖 「《バカ野郎》牢破りの罪人今すぐさっさと鎌倉に立ち帰れ!
 日蓮 建長五年四月二十八日、お題目を唱えて以来、国のおきてに背いたことは一度もない。 
 佐渡ヶ島に流されるならば、こうして素直に流されたではないか。お前は鎌倉の土牢の中に入れら れたはずだ!なんでここに出てきた。牢破りの罪人、さっさと鎌倉に立ち帰れ!!」
 ものすごいけんまくで日朗上人をしかったのであります。
そばにいた阿仏坊と千日尼、
二 「大聖人様、それはあまりにも惨い、あまりにひどい言葉ですよ。
   あなた様に会いたい一心で、そしてこのようなお姿にまでなって、この佐渡ヶ島まで参ってきたわけじゃないですか、なんという御言葉ですか? 
   あなた様には血も涙もないのですか? 日朗様さぁ私たちと一緒に鎌倉に帰りましょう。」
 そういって日朗上人を抱き抱えたとき、
聖 「待たれよ、阿仏坊殿、千日尼殿
 あの日朗の姿をなんと見られたか?もし、あそこで優しい言葉をかけていたならば、日朗はその場で死んでしまったはずだよ。 気を励ます意味で言った強い言葉を許してくだされ。」
阿 「それではもう一度会って頂けますか?」
聖 「何で会わずにいられるか、海山千里遠く離れたこの佐渡ヶ島、かわいい弟子が訪ねてくれたん   じゃないか、さーぁ日朗、早くこっちにへこい、こっちへこい。」
と、日朗上人にそっと添うと、再び師弟の対面が行われたのです。
 日蓮大聖人は日朗様の頭を、しっかり自分の胸にかきつけて、涙の対面が行われたわけです。
 私たちは「ほめる」ということは誰もができること。「しかる」ということは非常に難しいことです。
 しかし、その人が立ち直るためには「しかる」ことも必要なこと。子供をしかる、孫をしかる、本当に難しいことです。
 しかし、「気を励まし、立ち直る」ために弟子の日朗上人を叱った日蓮上人、
 我々は日蓮聖人からまさに「叱る」とういう「言葉の布施」も学んでいかねばなりません。
時間となりました。
今日は日蓮宗・妙林寺副住職、小埜栄輝がお話をさせていただきました。