おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
 だんだんと秋が深まって参りました。落ち葉が境内を埋め、木枯らしが吹き始める頃、私ども日蓮宗寺院では、「お会式」の季節を迎えます。「お会式」は「お講」とも申しますが、日蓮聖人のご命日を偲ぶ報恩法要です。日蓮聖人のご命日は旧暦の10月13日。東京では10月13日前後に「お会式」を営む寺院が多く、殊に日蓮聖人ご入滅の地にあります池上本門寺のお会式は盛大なものです。ご命日のお逮夜10月12日には、夕方から深夜に至るまで参道には人の流れが絶えることなく、一晩で30万人余りの善男善女が池上を訪れます。今年、この様子をある檀家さんにお話ししたところ、実際に東京までお詣りに行かれて「想像以上の賑わいにびっくり、素晴らしい雰囲気に感動しました。」とおっしゃっていました。
 岡山では月遅れの11月13日前後に「お会式」を営むことが多いのですが、市内寺院では13日にご信者の方が日蓮宗のお寺を順番にお詣りする「お講巡り」も行われます。
三々五々、のんびりとお寺巡りをして秋の一日を過ごすのも良いものです。
 さて、秋風の散らす境内の落ち葉を掃くのもお坊さんの仕事ですが、勿論それだけではありません。お経も読めば、法要にも出かけます。時には研修会で勉強することもあります。
 先日は、お坊さんのためのマナー研修会がありました。最近はお坊さんの礼儀・作法がなってないということから考えられた研修でしょうか。挨拶の仕方に始まり、来客への応対、訪問のマナーなど基本的なことが多かったのですが、いつもの自分自身の姿を省みることが出来て、有意義でした。殊に名刺交換の仕方などは、日頃名刺を持つことの少ない私たちにとっては、新鮮な学習でした。
 また、「身だしなみ」と「おしゃれ」の違いの説明では、日頃ぼんやりと感じていたことを明確に再認識することが出来ました。「身だしなみ」は他人に不快感を与えないための配慮。「おしゃれ」はプライベートで自分のために楽しむもので、自己満足。身だしなみを整えるのは、あなたの服装を見て相手がどう感じるかを考えること、との講師先生の説明には納得しました。若い世代の方々にも是非認識しておいていただきたいことだと思いました。
 質問コーナーではこんな質問が出ました。
「檀家さんと午前11時にお寺でお話をする約束をしていたところ、その方は30分前の10時30分にお見えになりました。私は11時までに是非とも済ませてしまわなければならない仕事をしており、困ってしまいました。こうした訪問客には、どう対応したらよいのでしょうか。」
 講師の方は、「約束の30分前の訪問はルール違反ですね。ですから、待っていただきましょう。但し、やるべき仕事を出来るだけ早く切り上げて、11時5分前にはお会いするようにしましょう。また、お客様がお見えになったとき、最初に一度本人が会って事情説明をしておくと、気持ちよく待っていただけると思います。」とのお答えでした。
 「なるほど」と思いました。最初に本人が顔を合わせて説明する心配りとせめて5分前に会う配慮とがスムーズな応対には必要だ、との説明に目から鱗が落ちた気分でした。
 ここでは「ルール」と「マナー」の違いについて考えさせられました。「ルール」とは、その語源をたどれば、「真っ直ぐな棒きれ」を意味しています。英語で「ものさし」を「ルーラー」と言いますが、この「ルール」から派生している言葉です。はっきりとした線引きの出来る規則・決まり・基準を指すのが「ルール」です。
 一方、「マナー」は手を意味する「mani(マニ)」という言葉を含んでおり、「手で扱う方法」が元々の意味です。手で扱う正しい法式から、相手に対する配慮が形になったもの、つまり行儀・作法を意味するようになったようです。
 約束の時間どおりに会うのがルールですが、そこに相手に一度事情を説明して、5分前に会う配慮を加えることで、相手に対する良いマナーとなるのだと思います。
 茶道の世界では、「お茶にはマナーはあっても、ルールはない」という言葉があるそうです。お茶の世界のようにお互いが相手を快くもてなしたいという配慮があれば、「おもてなしの心」を持って臨機応変に対応でき、明確な線引きを意味するルールは必要ないのかもしれません。しかし、現実社会ではなかなかそうもいきません。『新明解国語辞典』で「実社会」という言葉を引いてみると、「実際の社会。美化、様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞が充満し、毎日が試練の連続であると言える、きびしい社会を指す」と説明しているくらいですから。
 私たちはこの実社会、娑婆世界で生きていかなければなりません。そのためには、私たちは社会のシステムを維持していくための大きな線引きであるルール、法律や規則などを当然守らなければなりません。ただそれだけでは、私たちの生存は確保されるかもしれませんが、潤いのある生活はできないでしょう。ですから、お互いが相手に対する配慮、マナーを身につけることが大切になってくるのだと思います。
 お経で言う「質直意柔軟」が必要です。この言葉は、法華経の十六番目の章「如来寿量品第十六」いわゆる「お自我偈」の中に登場します。仏様の姿を求めて、人々の心が純粋な真心となり、優しく温和になるという意味です。素敵な言葉ですね。私たちも「こころ柔軟に」お互いに思いやりを持って接することが出来れば、私たちの社会はより住みやすい社会となり、この娑婆世界は浄土へと変わっていくことでしょう。
 最後にある絵本で見つけたもう一つの素敵な言葉を紹介します。絵本作家の葉祥明さんが書いた「リトルブッダ」の一節です。仏様の教えが、単純な文章の中できらきらと見事に結晶化しています。相手に対する配慮であるマナーをより純化していくと、仏教で言う
「慈悲」へとつながっていくのだと思います。
「ぼくは祈る ぼくに意地悪をする人が 自分の中の優しさに 気づきますように
 ぼくは祈る その人の幸せのために」
 本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話し申し上げました。