おはようございます。5日に小寒の入り日を迎えましたが、今朝も寒いなか皆様元気にお目覚めのことと存じます。今朝は、東備北端の地、赤磐市周匝にあります日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話いたします。
 昨年から放送されています、NHK朝の連続テレビ小説『だんだん』を今年も楽しみに観ておられる方も多いと思います。私もそのひとりですが、『だんだん』とは島根県の出雲言葉で、「ありがとう」という意味です。この感謝の気持ちを表す「ありがとう」という言葉、誰でも日常的に使う言葉ですが、皆様は普段どのくらいお使いになっていらっしゃいますか。最近では、これさえ満足に言えない人が増えてきているように思われます。この言葉は、「有り難い」からきた言葉で、そうであることがめったにないことを意味します。厳密には仏教語とはいえませんが、実は仏教思想を表す上ではよく用いられる言葉です。宗派を問わずお勤めで唱える「開経偈」の中にも「無上甚深微妙の法は百千万劫にも値いたてまつること難し」とあり、仏さまの教えに今生で巡り合うことの難しさを教えています。自然界に目を移してみれば、いのち有るものは種々おります。動物、昆虫、草花など。その中でも私たちは有り難くも人間として生きています。まさにありがたいわけです。この「ありがとう」という心は、親であり、子供であり、世間の人々であり、自然の恵みであり、仏さまのご加護であり、すべての力、恵みに感謝することです。感謝の心で生活することが生き生きと生きていくために必要な事なのです。
 テレビ『だんだん』の主題歌と語り(ナレーション)は、シンガーソングライターの竹内まりやさんが担当されています。竹内さんは、島根県の出雲出身。ナレーションも、まさにピッタリです。竹内さんは「縁」をテーマにオリジナル曲を作詞・作曲され、その曲名も『縁(えにし)の糸(いと)』。その主題歌の最初の歌詞は、「袖振り合うも多生の縁」で始まります。「通り合わせた見知らぬ者どうしの袖がふれ合った。それは決して偶然ではなく、そのようなちょっとした出来事も、すべて宿世の深い因縁によるものである」という意味ですが、この主題歌『縁の糸』の歌詞について、竹内さん直筆のメッセージには、
人生を形づくる上で最も大切なものは“ご縁”ではないでしょうか。
さまざまな人や物事との出会いによって、私たちの未来は決まっていきます。
年を重ねれば重ねるほど、すべての出来事がご縁と呼ばれるもので
成り立っていることに、深い感慨を覚えるようになりました。
この地を舞台とするドラマの主題歌を歌うことになった幸運も、
きっと縁結びの 神様の粋なお計らいにちがいありません。
本当に 本当に だんだん!
 と、ありました。まさにすべてのものは自分だけで存在しているのではなく、数限りない物や人のおかげで、どうにか存在出来ているわけですね。他のお陰に縁って起る、という「縁起の教え」は仏教の基本思想の一つでもあります。
 私たちの生活もまさに色々なご縁によって生かされています。一家の成立を見ても、夫婦の縁、親子の縁、兄弟・姉妹の縁、地域・社会の縁、国の縁と限りがありません。中でも最良のご縁は、仏法のご縁であります。
 しかも縁には、良縁と悪縁の二つがあります。良い縁にあえば、良い方向に向かい良い結果が生じます。しかし悪しき縁にあえば悪い方向に向かい、悪い結果が生じるものです。人間は良い結果が生じたとき、それは自分のこれまでの努力の成果だと傲慢な心を起します。ところが悪い結果が生じたときには、他人や他の物の責任にして、自らを反省して懺悔する心は脇においてしまいがちです。「あなたの前世は○○です。」という某番組がありますが、前世の自分よりも、今の自分がどのような行い、振る舞いをしているかを静かにふり返り、自己を見つめることの方が大切なのではないでしょうか。
 日蓮聖人は、「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」と、過去の自分が一体どのようなものだったのかを知りたい人は、現在の自分がどうなのかを見ればわかる。また、未来の自分がどうなるのかを知りたい人は、現在の自分がどう生きているのかを見ればわかると、教示されています。人は誰でも苦難の時、なぜ自分だけがこんなに苦しく悲しい思いをしなければならないのだろうかと、仏を呪い、天を恨みます。しかし、たとえどんな割り切れない思いでも、これは過去の自分が為したことの現れでもあるのだからと、よく耐え忍び、一日一日善い行いを積むように努力すれば、必ず未来に善い結果が現れるのだと教えておられます。
 良い結果は、他の人、他のもののおかげさまという謙虚な心をさとり、悪い結果は、自分自身の行いによるものだと反省の心をさとること。そこに感謝の念、報恩の念が生じるのです。その感謝・報恩の心があらわれた姿が真(まこと)の合掌となるのです。
 しかし、この真(まこと)の合掌の姿をあらわすのは容易なことではありません。なぜなら、感謝・報恩の心を生ずるには、目に見えるものだけを信じていては叶わない、出来ない姿だからです。目には見えない世界を信じる心が絶対必要条件なのです。
 以前、朝日新聞社のアンケート調査で、幸福について国民に対する問いかけがでておりました。「幸福をささえる為にはどういう条件が一番必要ですか」という問いかけに、お金や物、家や土地、それから健康な身体、教養や学歴、地位といった、目に見える世界のことをたっぷり持つことが人間の幸福の条件である、という答えが、全体の97%。残りの3%は真意に生きる心、神仏を信ずる豊かな心が必要であると答えていました。
私たちの世界には、確かに目に見えるものもありますが、見えないものの方が多いのではないでしょうか。お釈迦さまは、「目に見えるものと見えないものと二つで一つの世界である」と説いておられます。どちらの方に値打ちがあるのでしょうか。
 寒い朝を迎えて、炬燵やエアコンといった暖房器具が必要です。そのもの自体は目に見えます。熱によって光を発するものであれば、それも目に見えます。けれでも、これらのものを役立たせているものの本質、いわゆる電流は目に見えないものです。目に見えない電流など流れていようといまいと関係ない、と言って無視したならば、暖房器具を何十台つけても、役に立たず邪魔になるだけです。家は目に見えます。柱や天井、壁なども目に見えますが、家全体を支える基礎部分は、土の中に姿を隠しているため、目には見えません。見えない基礎工事に万一、手抜きがあれば、家の値打ちなどいっぺんに崩れてしまうでしょう。植物も同じです。きれいな花も目に見えない根っこが腐ってくると、そのきれいな花も駄目になってしまいます。このように、目に見えないものの中にこそ本当に大切なものが姿を隠しているということに心しなければならないのです。
 日蓮聖人は、「かくれたる信あればあらわれたる徳ある也」と、目に見えない私たちの心の中に秘めている信仰心があればこそ、その人の徳というものが、自然に顕れてくるとお教えです。人生において、どのような苦難があっても、まことを尽くす心、感謝・報恩の心、すなわち合掌の心とその行いに、人生を幸福へと導く決め手があることを忘れてはならないのです。そして合掌の心とは南無妙法蓮華経の心であります。
 今朝は、赤磐市周匝、日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話いたしました。