おはようございます。今朝は、岡山市箕島・正福寺住職・安井智賢がお話しさせていただきます。
六月になりまして、田植えの時期となり、農家の方々は大変忙しくしていらっしゃる事だと思います。早い地域では、もう終わっている所もあるでしょうか。私のお寺の周りも、田んぼが広がり、お檀家の方達も忙しくされておられます。お米というのは、私達の口に入るまでに、八十八もの苦労や手間暇がかかっているので、たとえ一粒のお米でも、決して粗末にしてはいけないと教わりました。
私には小学生の子供がいます。小学校の給食も昔と違い、パンあり、ご飯あり、うどんあり、ラーメンあり、おかずに関しても、実にいろいろなメニューがあるようです。これらの給食は、栄養士の先生と、調理員のみなさまが、子供達の栄養のバランスを考え、おいしい味付けにして、子供達に喜んで、楽しく食べてもらおうと、知恵をしぼり、一生懸命、苦労して作ってくださっているものです。本当に有り難く感謝しています。
この様な給食に関して、過日、この様な話を聞きました。ある小学校での保護者会での事だそうです。ある親が、「先生、うちの子は、きちんと給食費を納めているのに、何故いただきますと言わなければいけないんですか」と尋ねました。担任の先生も「それもそうですね」と言って、その後、このクラスでは、給食を食べる前に、いただきますを言わなくなったそうです。また、「うちは仏教徒ではないので、手を合わせていただきますと言うのはやめさせてください」と言った親がいたという話も聞きました。
この「いただきます」という言葉は、食べ物をもらうから、いただきますと言う事ではもちろんありません。日蓮聖人は、「白米は白米にあらず。すなわち命なり」とお教えくださっています。肉や魚はもちろん、米や野菜、果物も、すべての食べ物には、仏さまの命が宿っています。「いただきます」は、その尊い命をいただきますという事です。そして、食べ物の大切さを知り、その命、食べ物が口に入るまでの様々なご苦労に対して、心から感謝の気持ちを表す言葉が、「いただきます」だと思います。
また最近では、保護者が給食費を払わない、給食費の滞納問題という事が話題となっています。払えるのに払わないという保護者の数が、全国ではかなりの件数があるようです。子供の通っている小学校の校長先生は、以前勤務されていた学校で、クラスの担任の先生が、滞納分を立て替えて支払っていたので、それでは気の毒だと思い、かわりにお金を出されたそうです。結局、その給食費は納められなかったそうです。
給食費を支払わない理由としては、小学校は義務教育なのだから、給食も食べさせてもらって当然だという理屈だそうです。この様な理由を、本当に正しいこと、当たり前のことだと考えているのでしょうか。それとも、悪いことだと思いながらも、わざと払わないのでしょうか。あるいは、物事に対する善悪の判断、常識が麻痺してしまっているのでしょうか。
もちろん、経済的な理由で、やむをえなく支払いが滞る家庭もあるでしょう。この様な場合には、お互い当事者同士、素直に話合い、より良い方法を考えなくてはいけないと思います。そして、この様な状況の家庭に対してこそ、国や行政は、温かみのある、血の通った施策を講ずるべきだと思います。
正当な理由もなく、給食費を支払わないということは、自分の子供に無銭飲食をさせて、それがかまわないことだと教えているようなものです。将来、どの様な大人に育ってしまうのでしょうか。
最近、普通に考えて、あるいは常識で判断して、それはおかしいだろう、それは少し違うだろうと感ぜざるを得ない場面や状況に出会うことが多くなった様に思います。私の常識が、世の中について行けなくなったのでしょうか。また、私自身も自分では気付かないだけで、周りの人達から見れば、迷惑な行いをしているのかもしれません。
全般に、自分の事しか考えられない、周囲の事が目に入らない、周りの事を気にしない人が増えていると思います。自分の行動が周りに迷惑をかけている。周りを不愉快な気分にさせている。そういう事に気付く感覚がなくなって来ているのでしょうか。相手の立場になって物事を考える。相手の気持ちを思いやる。自分の言動によって、相手がどの様に感じるのか。周りにどの様な影響を及ぼすのかを想像する。とても大切な事だと思います。
少し前になりますが、小学校の入学式に出席させていただきました。新一年生の皆さんは、少し緊張した様子で、式の最中、来賓の方々の、「おめでとうございます」という声に対して、いちいちその人の方を向き、頭を下げて、かわいい大きな声で、「ありがとうございます」と、良い返事をしていました。
私は祝辞を述べさせていただく機会を頂戴しましたので、「みなさん、とても大きな声で、立派なお返事ができて、すごいなあと思いました。とても感心しました。大きな声で返事や挨拶ができるという事は、とても大切な事です。そうすると、先生や、お兄さんお姉さん達と仲良くなれます。これからも大きな声で返事や挨拶をしてください」という話をさせていただきました。
きちんと挨拶をするという事は、相手や周りの人達に、自分の存在や、自分の気持ちを認め、知ってもらうことと同時に、相手や周りの人達の事も、受け入れ、認めていくという、とても大切な事だと思います。
『妙法蓮華経』の中に、常不軽菩薩という菩薩様が出て参ります。この菩薩様は、相手が誰であれ、会う人ごとに、「私は深くあなた方を敬います。決して軽しめ侮りません。なぜならば、あなた方は皆菩薩の道を行じて、必ず仏と成られるからです」とほめて、手を合わせて、ひたすら拝んでまわられる礼拝の行を行っていました。この菩薩様は、この様に、常に人を敬い軽んじないというという事から、常不軽と名をつけられたのです。しかし、心が素直でない者は、反対に馬鹿にされたと思い、怒りをあらわし、私はそんな言葉は信用しないと言って、石を投げつけたり、杖や棒でたたいたりして迫害を加えました。それでも常不軽菩薩は、遠くに離れ、決して礼拝をやめようとしなかったのです。常不軽菩薩は、、会う人すべての人の心の中に仏さまを認めて、その仏さまを拝んでまわられたのです。日蓮聖人は、常不軽菩薩の「私は深くあなた方を敬います。決して軽しめ侮りません。なぜならば、あなた方は皆菩薩の道を行じて、必ず仏となられるからです」というお言葉と、南無妙法蓮華経とお唱えする事とは、同じ意味であるとお教え下さっています。
私達は、常に、周りの人達を敬い、認め合い、感謝の気持ちをもって、お互いの心の中の仏さまを拝み合う信仰生活を送って参りましょう。
今朝は、岡山市箕島・正福寺住職・安井智賢がお話をさせていただきました。ご清聴ありがとうございました。
南無妙法蓮華経。