明けましておめでとう御座います。新春を迎え、皆様如何お過ごしのことでしょうか。年頭に当たり、寿ぎを申し上げ、幸多かれとお祈り申し上げます。私は、瀬戸内市長船町飯井・妙光寺住職の柴崎文堯で御座います。
 宜敷くご聴聞の程、お願い申し上げます。年が明けて正月になりますと、喧騒たる年瀬が嘘のように静まり、家の内外に静寂にして厳粛な空気がみなぎって参ります。新年を寿ぐ喜びは、今も昔も変わっておりません。各ご家庭で、元日の朝、国旗を掲げてお正月のお祝いをなさいますが、是が一年の始まりです。
 年末には、門松を建てて、注連飾りをし、神棚に、仏壇に、そして床の間などに、うらじろ、昆布などを敷き鏡餅を供え水引やダイダイで飾りますが、これらが年末年始の一般的な習慣です。是に併せて、各ご家庭でのおせち料理です。重箱には、目出度い正月の料理を詰め合わせ、一の重には口取りとして、黒豆、キントン、蒲鉾、ゴマメ、数の子など、二の重、三の重と重箱の盛り方までもが、私の家では、仕来りとして、決められておりました。今は、余りこだわりは無いようです。主婦の正月料理の手間を省く上でも、是非お重のご利用を勧めたいものです。正月料理の定番としては、お雑煮、お蕎麦ですが、食生活の移り変わりによって、大分変わって参りました。日本は元来、農耕社会で神の授けて下さる幸福とは五穀、取りわけお米の豊作のことです。年の初めのお正月は各家庭での五穀豊穣の祈願祭であり、お祭りでした。家庭では、神棚の部屋には、注連縄を張って結界を造り、神聖なる神の部屋として居ります。この正月行事は時として日本人の誇りを取り戻す素晴らしい機会ではないでしょうか。お父さん、是非、孫達と一緒に松飾りをし、神棚にお仏壇にお飾りをして下さい。
 またお母さん、是非お嫁さんと一緒におせち料理を作り、お重箱に盛り付けて下さい。それが我が家の伝統習慣を守り後世にに伝える手段方法と思います。そして、一家団欒の、賑やかにお正月の食卓はあれやこれやと創造の広がる、なんと素晴らしい光景ではないでしょうか。
 戦後、荒廃した林野を守ろうという観点と、欧米流の文化の取り入れに迎合し、遺すべきものまでも切り捨てて参りました。加えて、戦後永い事、お役所から配布された、門松の印刷物を玄関先に貼りつけて、門松の代わりとして、門松を敢えて否定して来ました。
 皆さん初詣には参りましたか、本年もまた、高松のお稲荷さんに何十万人、何処そこの神社に、どの寺に何万人の参詣者がと、新聞、テレビ等によって報道されました。今年こそはよい年であります様にと、神社・仏閣に祈願するのは当然の事と思います。
 何処に、「何の為に何を、祈るか」、それは重要なことです。
 戦後すでに六十年をも経過しました。我を再発見し日本の将来を見直したいものですが、それは、神仏を信じ信仰の継続が第一と考えます。即ち正月に初詣をなし、その信仰態度を、年間を通して継続すると言うことです。それは、先祖様をお祀りしているご仏壇であり、菩提寺です。菩提寺に参詣し寺の行事に参加することです。この事こそが我を取り戻す最良の手段、方法です。家族そろって仏壇の前に正座して祈ることです。足が痛い、是を我慢する、足の痛さに耐えると言うことを身をもって実践することです。座るということは、足の痛みを克服し、慣れるということです。これを習得することです。生活の基本として下さい。子供の教育には特に大切なことです。何故なら繰り返しになりますが、忍耐、苦しさに耐えることの実践です。
 何の為に何を祈るか、それは、各々の、人生感、生き様、生立ち、境遇などによって個人差がありましょうが、家族一同が健康で幸せに、無事過ごせますようにと、家内安全・子孫長久を祈り、併せて国家の安寧と世界の平和を祈りたいものです。
 日蓮宗では、御本尊の御前に端座し、合掌し、南無妙法蓮華経とお唱えします。合掌し祈りを捧げますが「南無」という言葉の持つ意味、それは梵語の音写で「ナーマ」という言葉です。インドから中国へ仏典がもたらされ羅什三蔵によって漢訳されました。その時に恭敬・信従・帰依等に訳されましたが、帰命(きみょう)と訳されたのが最も多く用いられています。この言葉の持つ意味は、南無とは、私は素直に従います、という事です。
 南無妙法蓮華経とは、私は妙法蓮華経に素直に従いますと言うことです。帰命とは、心で判断し、言葉で表現し、身をもって行動するという事、この三業(さんごう)を捧げると言う事です。
 日蓮聖人は、「南無と申すは天竺の言葉にて候。漢土・日本には帰命と申す。帰命と申すは我が命を仏に奉ると申すことなり。南無と申す字は敬う心なり、随う心なりと。又、南無とは、自分の全生命を妙法五字に捧げ、絶対なる信を以って帰命し随うことである。それは自己と妙法五字が一体となり、妙法五字が自己の中に生きるということであり、妙法五字に具足した釈尊の因行果徳の二法が釈尊から譲与される」と書き残されています。だから、法華経の弘通に命を賭けられました。
 法華経如来寿量品第十六の中に、「質直にして、意柔軟に、一心に仏を見奉らんと欲して、自ら身命を惜しまず」とありますが、この言葉の意味する処は、「素直に、真面目に一生懸命、私は仏に随います」、と言う事です。
 私は、この言葉の意味する処は、私は生涯にわたり素直に、真面目に行動します。何事にも一生懸命努力します。と心で判断し、言葉で表現し、身をもって行動します。と理解しました。
 この自分の行動に南無することが南無妙法蓮華経です。法華経の五百弟子受記品第八に「その国の衆生は常に二食を以ってせん、一には法喜食、二には禅悦食なり」と説かれて居ります。その一つ法喜食とは、お経は大きい声で暗記するほどに読む、何たるかを理解する、書き写す、理解したならば、お経の意味するところを、大衆の皆さんに伝える。次に禅悦食とは、それらを理解したものを、自分自身の、心と体で読む、即ち行動する事です。それは仏様にご給仕する事です。一つには、仏壇を掃除し、お灯明を灯し、香を焚き、ご仏飯を供え、先祖を敬い、家族して礼拝する事です。即ち、家族を守る、子供を育てる、家族を幸せにする事です。二つには、菩提寺の行事に参加し寺の興隆に奉仕することです。三つには、地域社会のために努力し、この国のために貢献する事です。それが仏様にご給仕するという事です。これらの行動を、功徳を積むという事です。其れが祈りの原点です。
 お互いに功徳を積むという事の実践です。是非皆様、功徳を積み、ご先祖様を始め、有縁の方々に回向を捧げ、残りの利益を戴きたいものです。
 妙光寺住職・柴崎文堯がお話しさせて戴きました。