皆様おはようございます。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘がお話いたします。
 毎日、暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。私たち岡山地方のお盆の期間は、8月の13日から15日ごろまでです。もう準備をされている方も多いことでしょう。
 お盆を迎えるに当たっては、お仏壇の前や床の間に、うち敷きやゴザを敷いて「盆棚」「精霊棚」を設けます。そこに、お位牌をならべ、花や果物、またなくなった家族の好物なとのお供えをして、祖先の霊を迎える準備をします。また、我が家を知らせる目印として提灯や行灯を灯します。もちろん、ご先祖は成仏しているわけですから、迷うことはないのですが、提灯や行灯に火をともして先祖をお迎えするというのは、わたしたち生きているものが、今は亡き先祖を想うやさしい感謝の気持ちを表したものと言えるでしょう。
 また、今でも時々見かけますが、祖先の霊の乗り物として、キュウリで作った馬とナスビでつくった牛を供えることもあります。これは、先祖の霊が、足の速い馬に乗って我が家に早く帰ってきて欲しい、そしてお盆の期間が終わったら足の遅い牛に乗ってゆっくりあの世に戻っていくように、という願いをこめたものなのでしょう。
 このようにしつらえたお盆の棚の前で僧侶がお経をあげて供養するので、お盆の読経のことを「棚経」といいます。また、最近では特別な棚を設けず、仏壇にお盆のお供えをする形式も普通になってきています。ともあれ、お盆の間、ご先祖に手を合わせ、心の中で亡き人に思いをはせてみるのは、意義深いことと言えるでしょう。
 私は、8月1日から二週間余り、お盆のお経、棚経に回ります。お宅に伺い、挨拶するとすぐ仏壇または盆棚の前にすわります。お灯明とお線香をつけ、まず「何々家先祖代々の皆さんがここにおいでください」、と言う意味のことを言います。次に自我偈を読み、お題目を唱えます。最後にお位牌に記されている戒名を読上げ、ただいま盂蘭盆会の供養をいたしました」、という意味の文句・回向文を唱えて締めくくります。
 時間的には、正味5分間ほどですが、それぞれのお宅にとっては年1回のことなので、一生懸命お勤めをします。戒名を読上げているときには、ふとその方のお元気な時の思い出が鮮やかによみがえってくることもあります。
このようにして15日間、朝7時半頃から、夕方5時ごろまで、棚経に回るわけですが、檀家の方から「大変ですね」と声をかけていただくこともしばしばです。確かに体力的にはかなりきついのですが、その一方でお経の有難さ、お経の力というものを実感する日々でもあります。
棚経のときには、時間の関係から法華経の如来寿量品第十六のなかの自我偈だけを読みます。
「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」で始まり、
「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」
によって締めくくられる「自我偈」は、皆さんもよくご存知のお経です。この五百十文字の自我偈は、法華経のなかで最も大切なところなのです。
今日は、もう少し自我偈についてお話ししてみましょう。日蓮聖人が五十四歳のときに書かれた『法蓮鈔』という御遺文を紹介してみます。『法蓮鈔』というのは、今で言えば千葉県に住んでいた曽谷二郎法蓮という信者の方が、自分の父親の十三回忌にあたって、身延山におられる日蓮聖人に、供養の品々と届け、亡き父親の追善回向のお願いしたことに対するお返事の手紙です。そのなかで日蓮聖人は自我偈について、
 「いまの施主十三年の間、毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は、「唯仏与仏乃能究尽」
 なるべし。それ法華経は一代聖教(しょうぎょう)の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。」
と述べておられます。これは次のような意味です。
 「いま、施主であるあなたは、十三年間の間、毎朝自我偈を読誦されていたわけですが、その功徳というのは、ただ仏と仏とでなければ、究め尽くすことができないほど、広大なものです。そもそも法華経は釈尊のとかれた教え・お経のなかの骨髄・肝心かなめのものであり、なかでも自我偈は法華経二十八品の魂です。」
さらに、日蓮聖人はこうおっしゃいます。
「十方世界の諸仏は、自我偈を本当の師として仏に成られたのであるから、自我偈は世界の人々の父母のような存在です。それゆえ今、法華経の自我偈を信じ保つ人は、諸仏の命を継続させる人というべきです。自分がさとりを得るうえでの根本的な拠り所であった法華経を信じ持つ人を、仏は決して見捨てることはありません」
このように日蓮聖人は自我偈がいかに大切なものであるかを強調されています。
それでは、自我偈とはどのような内容のお経なのでしょうか。まず、仏すなわち釈迦仏は「自分が仏に成ってから、今まで考えられないほど長い時間が経過した、そして常に教えを説いて衆生を成仏させてきた」、と宣言します。さらに続いて、仏は、自分は何時でも何度でもこの世界に現れて教えを説き、無限に人々を救い続ける、と語ります。自我偈の最後、仏は
「常に自らこの念をなす、何を以てか衆生をして無上道に入らしめ、速やかに仏身を成就することを得せしめん」
という言葉で締めくくります。
これは「私はいつもこのように考え念じている『なんとかして、人々を無上道に導き、速やかに成仏させよう』と」という意味です。つまり、自我偈というのは、仏様が我々を救おうという決意を表明されているお経なのです。このことを常に思い出しながら自我偈をお唱えしたいものです。
 さらに言えば、私たちが自我偈を唱えるということは、釈迦仏の言葉をそのままおとなえしているわけです。ですから、仏様の決意・願い、我々を仏に至らしめようという有難い仏様の願いの力とでもいいましょうか、その力なり功徳をそのままいただき、受け止めていることになるわけです。
 さきほど紹介した『法蓮鈔』という御遺文の中で、日蓮聖人は法蓮さんが唱えた自我偈の功徳が法蓮さんの亡き父に届くのだということを次のように説いておられます。
 「あなたが毎朝となえる自我偈の一々の文字が、あなたのなき父のところに届いて、その眼になり、耳になり、足になり、手になるでしょう。そのとき、なき父は「わが子法蓮は、子供ではなく自分を導く先達である」といってこの娑婆世界にむかってあなたを拝まれることでしょう。」
 私たちは、生きている限り、悩んだり、迷ったり、苦しんだりするわけですし、亡くなった方とは直接言葉を交わすことはできません。しかし、仏の言葉であるお経、特にその中でも最も大切な自我偈を一心に唱えている時には、私たちも何分の一かは仏に成っているといえるのではないでしょうか。それと同時に自我偈をお唱えする私たちの声というものは、きっと亡き人にも届いていると思います。
 今朝は、瀬戸内市長船町福岡、日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘がお話いたしました。