おはようございます。今日は日蓮宗妙楽寺住職、北山孝治がお話を申し上げます。
 今日5月12日は「伊豆法難」の日にあたります。こう申し上げましても、これでお分かりの方は日蓮宗の信仰が相当に厚い方か、日蓮聖人のことについて大変にお詳しい方だけだと、思います。
 日蓮聖人は、法華経を当時の鎌倉の世の中に広められたが故に、数多くの法難にお会いになられました。その中でも、特に大きな四つの法難を四大法難と申します。「伊豆法難」とは、この四大法難の一つに当たります。日蓮聖人、40歳のときのことです。
「伊豆法難」の前年、日蓮聖人は39歳のとき、あの有名な「立正安国論」を時の幕府に献上されました。当時の鎌倉は、「天変、地夭、飢饉、疫癘、普く天下に満ち」とこの「立正安国論」の冒頭に書かれていますように、風災害、地震、それに伴う大飢饉、疫病の蔓延と、まさに地獄の様相を呈していました。これは正しい教えが広まっていないからだとお考えになった日蓮聖人は、法華経の信仰を時の幕府に要請されたのです。表面上、この「立正安国論」での日蓮聖人主張は無視されてしまいましたが、体制批判と受け取られてしまったのか、この後、日蓮聖人には、影に日向に幕府からの弾圧が加えられることになりました。
「立正安国論」献上から一月のちには、お住まいが焼き討ちにあいます。寸前でこの難を逃れられた日蓮聖人は、鎌倉の地を離れられ、やく一年ほど、ご出身の地である千葉県に移られましたが、翌年再び鎌倉へ帰られ、法華経の布教を始まられました。その矢先の5月12日、幕府の役人に捕らえられ、鎌倉から伊豆の伊東への流罪の刑に処せられたのであります。
 この伊豆法難は、一年と九ヶ月ほどでご赦免となられたのですが、その後も、眉間を刀で切りつけられた「東条法難」、打ち首寸前だった「竜の口法難」と、もっともっと大きな法難が、日蓮聖人を待ち構えていました。61歳のご生涯の最後の九ヵ年を身延山で過ごされた時を除いて、日蓮聖人には安穏なる日は、一日としてなかったのです。
 今私は信仰のお話を、普通にこうしてラジオでお話しています。自分の意見、考えを普通に述べることができます。しかしこのことで、私に迫害が及ぶ状況の時、迫害とまでいかなくても非難が集中すると想像できたとき、それが正しいと思っていても、自分の考えを素直に、普通に述べることができるかどうか全く自信がありません。どういう状況であっても、正しいと思ったことを正面きって主張する力、これを「信念」と呼ぶのだと思います。
 例えば、あのガリレオ・ガリレーのことを思い起こしてください。ガリレオは今ではごくごく当たり前である「地動説」を唱えたが故に、宗教裁判にかけられました。その結果、全ての役職は剥奪されて、一生涯を軟禁状態に置かれて死んでいきました。当時は犯罪人として扱われたわけです。地球が太陽の周りを回っているなどとは、今でも私には、想像しない限り信じられないことですから、当時では文字通り「天と地がひっくり返る」くらいの異端の説だったことは間違いないのでしょうが、それにしても、あの大天才が生涯軟禁状態に置かれたとは、人類全体にとっても、なんとも不運・不幸なことが行われたものです。
 ガリレオが裁判の時につぶやいたと言われている「それでも地球は回っている」という有名な言葉は、ガリレオの信念を物語るものであります。名誉も、地位も、全てのもが剥奪されて、その代償はあまりにも大きかったのですが、それでも、自らの信念が勝ったのであります。
 ちなみに1992年、ローマ教皇は、ガリレオの宗教裁判の間違いを認め公式に謝罪しています。1992年とは平成4年のことですから、わずか今から15年ほど前のことです。ガリレオの死から350年がたっています。
 こうした理不尽なことは、もちろん宗教に限ったことではありません。第二次世界大戦中、戦争反対の主張は当然のこと、全ての言論は規制、弾圧されました。そのような中でも自らの信念を貫き通した人、自らの意見を曲げなかった人はいました。その内の何割かの人は投獄され獄中で死んでいった人も数多くいました。
 正しいと思ったことを信念をもって主張することができなかった時代、普通のことが普通でなかった時代。それに較べて、今私たちの住む日本の社会はなんとすばらしいことでしょう。言いたいことはなんでも言えて、やりたいこともほとんどができます。
 しかし、だからといって、私たちのまわりで正論を吐き、正義を貫き通す人がどれだけいるかと見回してみると、なかなかそういう人には出会いません。他人のことではなく自分自身に問いかけても、権力、権威をもっている人、力のある人、恐い人に対して、正論、正義で立ち向かえるかと考えると、自信を持って「はい」と答える勇気が涌いてきません。自分にとって都合のいい「言いたいこと」は言えます。自分が「やりたい」ことはできます。しかし、損をしようが嫌われようが、正義、正論、信念をもって自分の生きかた考えを主張することは、容易なことではありません。ましてそれが自分のためではなく、社会のために、となると大変なことです。
 少し前のことですが、列車の車内で女性に暴行をした男が逮捕されました。事件の詳細が発表されると、その車両には40人の乗客が乗り合わせていたのにもかかわらず、誰も止めることができなかった、ということがわかりました。いくつもの番組でそのことが取り上げられ、批判合戦がくりひろげられました。様々な意見がでて、乗客40人に非難が集中したことはいうまでもありません。中には被害になった女性に対する批判もありました。「はっきりと拒絶の声をだせたはずだ」「あいまいな意思表示だったのではない」などというものです。まさに「言いたいことが言える」世の中です。
 安全な場所にいて高みの見物をして、そこでなら、誰にでもどういうことでも言えます。「自分がその場所にいたならどうしただろう」と考えないと、いつもいつも私たちは評論家で終わってしまいます。ご飯を食べながら、お菓子をボリボリと齧りながら、テレビのワイドショーを見ているときは、私たちは正論を堂々と吐き、正義の味方を演じることが容易くできるのです。
 日蓮聖人はあるご文章で次のように述べられておられます。
「日本国にこれを知れる者、ただ日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば、父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたり」
 法華経の教えを当時の鎌倉の状況の中で声ただかに広めようとすれば、自らはもちろんのこと、両親や、兄弟、自分のお師匠さんにまで迫害が及ぶのは必至である。しかし、法華経のすばらしさ知っているにもかかわらず、そして、お釈迦さまがこの教えこそを広めよ、と厳命されているにもかかわらず、迫害を恐れてなにも言い出さないなら、仏教者として人間として、全く慈悲心のない者になってしまうではないか、とのお言葉です。日蓮聖人にも、ためらいがまったくなかったわけではないでしょう。恐れ、怖さも当然おありになったはずです。しかし、意を決して自らの人生の全てと命を懸けて、正義、正論、信念を貫き通されたのであります。
 さわやかな五月の朝、新緑に囲まれながら、先人の大いなる心に思いを馳せていただければと思います。
 今日は日蓮宗・妙楽寺住職、北山孝治がお話をさせていただきました。