おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
 だんだんと秋が深まって参りました。落ち葉が境内を埋め、木枯らしが吹き始める頃、私ども日蓮宗寺院では、「お会式」の季節を迎えます。「お会式」は「お講」とも申しますが、日蓮聖人のご命日を偲ぶ報恩法要です。日蓮聖人が亡くなられました地にあります東京の大本山池上本門寺では殊に盛大なお会式法要が営まれ、全国から30万人に及ぶ参詣者が集まります。
 この池上本門寺の先代の貫首様、御住職をお務めになった田中日淳上人が今年の夏、一冊の本を出版されました。仏教関係の本ではありません。『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』というタイトルです。田中上人は、太平洋戦争敗戦時、陸軍中尉としてシンガポールの陸軍司令部にいました。終戦後、シンガポールで帰国のための復員船を待っている間、戦犯収容所であった同国のチャンギー刑務所で、死刑判決を受けた戦犯の方々の最期を看取る、教誨師をしてもらえないかと頼まれます。田中上人はもうすぐ祖国に帰ることが出来ると帰国の日を楽しみしていたのですが、悩んだ末日本から正式な教誨師が到着するまでの間、チャンギー刑務所での教誨の仕事を引き受けました。そこで多くのB級C級戦犯の最期に立ち会うことになりました。
 誤解されることが多いのですが、戦犯につくA級・B級・C級という名称は、罪の重い軽いではなく、戦争犯罪の種類の違いを意味しています。A級戦犯は、国家を戦争にし向けた政府及び軍部指導者が該当し、B級C級戦犯は、戦時中に捕虜や地元住民を虐待したとされる現場の将校や兵隊たちが該当しました。A級戦犯は公開の東京裁判で裁かれ、処刑されたのは7名でしたが、BC級戦犯は多くの場合、日本から遠く離れたアジア各地で非公開の形で公正とは言えない裁判が開かれ、約1000人に及ぶ処刑者がでました。田中上人が着任したチャンギー刑務所でも129名の方が戦犯として命を落としました。  田中上人の教誨師としての仕事は、死刑判決が確定した戦犯を処刑の日まで見守ることでした。普段は刑務所の中にも穏やかな時間が流れていました。判決を受けてから実際に刑の執行が行われるまでしばらくの時間、2〜3ヶ月から半年の猶予がありました。その間に死刑囚たちが行っていたのが、遺書を残すことでした。彼らは公には遺書を書くことが許されていません。もちろん、それを外に持ち出すことなどもってのほかです。見つかれば厳しい処分がくだされ、持ちだした人間も罰せられることになります。それでも、死刑囚たちは一縷の望みをかけるかのように、トイレットペーパーや紙切れ、手に入る様々なものに遺書を書いていました。でも、どんなに遺書を書いておいても、処刑された後、ことごとく遺品と共にボイラーで燃やされてしまうのが決まりです。そこで田中上人は、彼らの最期の思い、最期の言葉を後世に残し、遺族たちに届けたいとの思いから、さまざまな工夫を施し、危険を冒して、遺書を刑務所の外に持ち出し、万一に備えてそれを全て書き写しました。毎晩自らの兵舎にて遺書を書き写すのが田中上人の日課となりました。
 そして昭和22年9月、日本から正式な教誨師が到着したため、田中上人は帰国することになりました。帰国の際にも持ち物検査、検閲があったのですが、これも無事にかいくぐり、遺書をそれぞれの遺族のもとへと送り、手元にはその写しだけが残りました。本書の中にはその残された遺書118通が収められています。いくつかご紹介してみます。
 駒井光男陸軍大尉の遺言。
 兄宛。常に親の代わりとなり、妻八重子、子供らの面倒を見てくださるよう呉々もお願いします。
 妻宛。子供らを愛撫し、立派に教育をしてくれ。家事に関しては遺言書に記入しあれば、その通り実行してくれるように。
 子供宛。人に指さされるような人になるなよ。立派な人となれ。三月十四日は父の命日であるぞ。汝等が父の追善供養をなす時は、父必ず汝等と共にあるであろう。
 柳本静一海軍中尉、24歳の遺言。
 今度思いかけずも戦犯人としてシンガポールで死なねばならぬことになりました。いずれ帰れないとは思っていましたが、こんなことになって、父上、母上にお嘆きさせようとは夢にも思いませんでした。静一は最期まで柳本家の正統として決して恥ずかしくない態度を持ち続けます。決して自分が悪いことをして掛かることになったのでなく、只一途に国のためを思って為したことです。私が残虐なことの出来る子でないことは父上、母上が一番よく知っていてくださると思います。判決を受けてから考えることは唯父上、母上のことだけです。最期まで私の胸の中に父上、母上をしっかりと抱きしめて死んでいきます。唯心残りのことは父上、母上、房枝のことだけです。皆様お元気で天寿を全うされんことをお願い致します。
 松岡 勇海軍上等兵曹 33歳の遺言。
 母上様。長い間いろいろお世話になりました。何ら親孝行も出来ず、今戦犯者として死んでいきますこと申し訳ありません。しかし御国のために一生懸命働いてこうなったのですから思い残すことは更にありません。何事も運命です。どうか母上には益々長寿を保たれ幸せにお暮らしになるよう祈っております。
 かほる殿。いろいろお世話になりました。何一つしてあげることも出来ず、今また新しい苦難の道を歩ませなければならぬかと思うと感無量です。でも私は御身の如き人を得て、全てをお委せして往ける喜びは喩えようのない喜びです。どうか身体に気をつけて私の分まで親孝行をしてください。幸せに暮らすよう偏に祈っております。
 正殿。正、父は今死地に投ず。おまえの幼顔のみ瞼に残る。大きくなったことだろう。父の死もやがて了解することがあろうと思う。唯父は御国のため正々堂々と懸命に働いたのです。すべて戦に敗れたことが運命であったのです。誰をも怨むことなく父の志を継ぎ、御国のために立派な人になってください。
 戦後62年が経ちました。田中日淳上人も今年93歳を迎え、すでに公職を退き、家族と共に穏やかな生活を送っておられます。家族に付き添われて池上本門寺の境内を車椅子で散歩するとき、境内に建てられた「シンガポールチャンギー 殉難者慰霊碑」の前で上人は必ず祈りを捧げられます。「戦犯じゃないんです。殉難なんです。戦争という国家を揺るがせた大難に殉じた人たちなんです。」と田中上人は話します。
 戦争の記憶は次第に薄れ、現職の国会議員の中にも戦争体験者は一人もいなくなってきました。戦争の悲しさを知り、平和の大切さを認識して、正しい法を立てて国家を安んじ、今後とも戦争という大難が起きることのないような国家、社会を維持していくことが大切なことだと思います。
 本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話し申し上げました。