皆様おはようございます。今朝は、赤磐市周匝にあります日蓮宗蓮現寺住職の堀江宏文がお話しいたします。
皆様は、自分の親を信頼していますか?または、どれだけわが子から信頼されていると思われますか?飽食の時代といわれて久しい今、食べたいものは季節を問わず手に入るようになりました。しかし有り余る物に恵まれるなかで、いつしか「もったいない」という言葉は聞かれなくなり、「在って当たり前」という感覚になってきているのも事実です。そして多くのものがまだ使えるのに無造作に捨てられ、ムダにされています。このような、モノの余り時代、消費社会に踊らされ、快適な生活を楽しむ中で、節制を忘れ我欲の追求に汲々とする自己本位な人間が増え、いつしか人間は感謝する気持ちを忘れ、いのちの大切さをも見失ってきているように思われます。
「わが子がうとましくなった」との理由でわが子を殺害する母親。また「しつけの範囲だ」との理由で、わが子に暴力を加え、食事を与えず、衰弱死させる親など。昨今の虐待や子ども殺しの実態が明らかになる度に、子どもに愛情を注げない親、子どもを邪魔にする親、子育ての出来ない親が増えてきているように思われます。
 以前、厚生労働省が、若い女性たちの意識調査を行ったところ、子どもを産み育てることを「負担に思う」と、答えた人が全体の八割に達していることが分かりました。行政は、少子化に歯止めをかけるために、子育て支援の一つとして、延長保育制度をつくり上げました。自治体や運営形態によって条件は異なりますが、延長保育とは保育園が午前7時から午後8時までの計13時間、子どもを預かる制度です。確かに働く親にとっては好都合の制度であり、そうせざるをえない家庭の事情もあることでしょう。しかし、夜8時まで預けられる幼児にとってはどうでしょうか。
 先進国のなかでは、週30時間以上子どもを預けることを「長時間保育」と呼ぶそうです。一日6〜7時間が長時間保育の平均値とのこと。ところが日本で、いまや長時間保育は一日13時間にもおよび、さらに延びようとしているのが現実です。行政は住民の心や要望を反映するのであって、こうした施策の背後には、「子どもが三歳になるまで母親は仕事を持たずに家にいるのが望ましい」という考えを支援する母親たちが、この10年間に88%から25%に激減した社会の事実があるのです。
 かつて「日本の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子どもに尽くす母親はいない」といわれたそうです。しかし、今はどうでしょう。「親学」研究の第一人者である高橋史朗教授の著書、『親学のすすめ』には、1981年の内閣府の調査で「子育てはイライラする」と答えた母親は、10.8%だったのが、今は75%です。「親が子の犠牲になるのはやむをえない」と答えた親は38.5%、世界平均約73%の半分で、調査対象73カ国中72番目だったそうです。子どものために親が自分を犠牲にするという価値観が、およそほかのどの国よりも軽視されている現在の日本では、両親への敬愛が、子どもの心から薄らいできていて、親との親近感を感じられない子どもが増えているとのことです。
 NHK番組で、食卓の風景を子どもたちに描かせたことがありました。ご馳走がたくさんでている絵。お刺身が出ていたり、ステーキやコロッケが出ていたり、ご馳走が描かれています。そして、テーブルなども昔のテレビドラマに出てくるような小さいちゃぶ台一つで正座して食べるという家庭ではなく、立派なテーブルにお花が飾ってあったりします。でもそのなかに変わった絵がいくつか目立ちました。家族が一緒に食べているのではなく、子どもは二階の自分の部屋で、テレビを見ながら一人で食べているのです。お父さんとお母さんは、一階でやはりテレビを見ながら、二人で食事をしている絵です。これはどういう豊かさでしょうか。どんなに物があっても、どんなにお金があっても、食べ物が豊かでも、心と心が通わない。そんな環境で食事をするような家庭では、子どもが親に親近感を抱くはずがありません。子どもは言葉も話せない段階から、親の言うことの30%を学び、親のすることの70%を真似るといいます。だからこそ、親の生き方が問われるのです。命をいかすこと、命を育む上で、親の子どもに対する無償の愛は、極めて重要です。そして、親の子を思う気持ちは、仏さまが私たち人間を含め、生きとし生けるすべてのものの苦しみをぬき、真の救いと安らぎを与えて下さる「慈悲の心」と同じでなければなりません。すなわち、子どもを育てる親は、慈悲ある親でなければならないのです。
「慈悲」の「慈」とは慈しみ、幸福を与えること、「悲」とは苦しみを消すこと。仏教では、慈を父親の愛、悲を母親の愛に喩えます。たとえば、小さな子どもが転んだとします。直ぐに手を差し伸べて起き上がらせるのではなく、泣いている子に向かって、「さあ、自分の力で立ってごらん」と、導くのが父親の「慈」の厳しい愛情。そして自分の力で立ったならば、「よく頑張った」と、頭をなでてあげる。転んだ子どもが怪我をしていました。「よしよし、痛かったね」と、抱きしめて慰めながら傷を洗って癒してあげるのが母親の「悲」のやさしい愛情なのです。子どもを育てる親は、責任ある威厳をもってのぞむべきです。また善悪のけじめなど教えるべきことをしっかりと教え、そして正しい方向へ導かなければなりません。
 仏さまは、自らの教えと悟りと行いとまことの心そのものを、慈悲の心をもって、私たちを救い護るために、また私たちの心の病を癒すために、とっておきの薬=大良薬として日蓮聖人を通して譲り与えて下さったものがあります。それは南無妙法蓮華経のお題目です。日蓮聖人は「小児の乳を含むに、その味わいを知らざれども自然に身を養う」(四信五品鈔)と述べられています。赤ちゃんが母親の乳をふくむとき、その栄養や成分を知らなくても、何も思わず、無心にのむことによって、自然に成長します。お題目は母乳のようなものです。一切を疑わず、一心に合掌をして、お題目を唱えるならば、私たちは自然に幸せや安らぎなどの功徳を譲り与えられるのです。しかも一切の人々は、仏さまの慈悲の心によって、生かされ、護られ、育てられ、導かれ、救われるのです。この慈悲の心とはお題目の心です。お題目の心に目覚め、お題目の信仰に生きるとき、仏のような振る舞いができる親となれるのです。お題目の心で子どもに接するとき、子は親への恩恵を心から知り、その恩恵に報いる感謝の言葉や行為がなされることでしょう。私たちが、お題目をたもたなければならない理由は、ここにあります。
 今朝は、赤磐市周匝、蓮現寺住職、堀江宏文がお話いたしました。