新年明けましておめでとうございます。
 新春を迎えられ、いかがお過ごしのことでしょうか。今年こそは幸多き年でありますよう願っております。本日お話させていただきます私は、瀬戸内市長船町、妙光寺住職柴崎文堯でございます。
 さて、日本漢字能力検定協会が昨年12月12日に発表した昨年の漢字一文字で、一番多かったのが「命」でした。命と言えば、悲しい出来事が新聞やテレビで毎日のように報じられました。中でも「いじめ」です。自殺者までも出す有様です。いじめに対する対策はありましょうか、もっともっとお互い命を大切にしたいものです。
 私の体験からして、自分自身がいじめに対し負けないという強さです。私自身も農村の中で非農家ということでいじめられました。強くなるには何かを見つけることです。私は学業に熱中することにしました。
 まだまだ不幸な事件がありました。それは親が幼い我が子を虐待し命を奪っております。また、何不自由なく生活している当たり前の家庭に見えながらも不幸は起こりました。子供が親を殺すという殺人事件です。これも大きく報じられました。
 孤独な一人暮らしの老人の家庭が増加しております。老人介護はキレイごとでは済まされない問題です。親戚ご家族はいらっしゃいますか。精神的にも、肉体的にも、設備等の物理的問題にしても、経済的にもと、重圧のかかる問題です。私自身も70歳を越えた夫婦二人の生活です。この問題は他人事では済まされない問題として考えなければなりません。将来を見つめた時大変な問題です。
 また、大きく報道されました事件としては、岐阜県をはじめとして各県に蔓延している裏金資金の問題や、官製談合も大きなる不祥事です。福島県・和歌山県・宮崎県の各知事をはじめ市長までもが逮捕されました。さらには、酒気帯び運転による事故の多発、特には警察官、公務員、学校の先生などが多く取り上げられました。これだけ新聞やテレビで連日報道されておりながらも一向に減少されておりません。このくらいなら大丈夫との意識過剰が災いしているものと考えられます。
 さてこの「命」について考えてみたいと思います。
 法華経の如来寿量品の一文に「汝ら当に知るべし、我れ、今、老い衰えて、死の時すでに至りぬ」とあります。お釈迦様も、肉体は老い衰え、死期が迫るのを予期するのでしょうか。生老病死の四苦は逃れようのない現実です。その中でも生老病死の苦しみには個人差があります。
 昨年12月には教育基本法が改正されました。国旗を掲揚し、国歌を斉唱し、両親を大切にし、郷土愛に燃え、日本の将来を託すに足る、高邁なる知識を涵養し、日本人としての誇りを持った人材の育成に目指した教育を期待しております、と申し上げたい。
 法華経五百弟子受記品に「その国の衆生は常に二食を以ってせん、一つには法喜食、二つには禅悦食なり」とお釈迦様は説かれております。それは、一つには、よく経を読み理解することです。二つにはお経を大きい声で暗記するほどに読む、何たるかを理解する、そして書き写す、理解したならばお経の何たるかを大衆の皆さんに伝えてあげる、これを法喜食と言います。次に禅悦食とは、それら理解したものを、自分自身の心と体で読む。すなわち行動することです。仏様に御給仕することです。第一に家庭を守る、子供を育て家族を幸せにする。二つは、地域社会に、この国土に貢献するということです。それが仏様に御給仕するということです。これを功徳を積むと申します。
 家族が、学校が、地域社会がお互いにこの功徳を積むということの実践です。行為によってお互いが助け合い幸せを得るということです。あなたの幸せが私の幸せ、あなたの不幸は私の不幸です、お互い共に生きよう。それらがその人の因縁・業というものでしょうか。
 法華経寿量品に「是の好き良薬を今留めてここにおく。汝取りて服すべし。差えじと憂ふることなかれ」とお釈迦様は、肉体の老死を衆生に見せることによって、逆に滅びることのないものを悟らせようとしているのです。迷いや、生に執着している衆生に、老病を取り除いて、真実の生き方を目覚めさせる「是の好き良薬」を残されました。
 昔、インドの国にそれはすばらしいお医者様がおりました。ある日診療から帰ってみますと子供たちが毒薬を飲んで苦しみもがいておりました。このお医者様にはそれはそれは大勢の子供がおります。父たるお医者様の薬棚からいろいろな薬を取り出し、毒薬を飲んだものと思われます。症状の軽い子供は、父なるお医者様の言いつけに従い毒消しをいただいて健康を取り戻しました。しかし重症の子供はどう諭しても聞く耳を持ちません。弱り果てたお医者様は一計を案じ、香りもよく色もまたよろしい良薬を調合して薬の棚の中でも目立つ所に置き旅に出られました。そして、旅先から使いの者を遣わして、お父さんは不幸にして旅先で亡くなられたのです、と告げられました。使いの人は、父の残された薬棚の良薬を取り出して、苦しみもがいている子供たちに薬を飲ましてくださいました。
 そこへ父たるお医者様が帰って来ました。苦しみから解放された悦びを親子して祝福したという話です。
 父は方便を以って死んだ、亡くなったと言い、私たちに良薬を飲ませてくださいました。これは法華経寿量品の「是の如き良薬を今ここに留めておく汝とって服すべし」というお経の一節です。
 ではお医者様は誰か。それはお釈迦様です。
 苦しんでいた子供たちは、それは私たち衆生です。
 使いとして薬を飲ましてくださった人は誰か、その人は上行菩薩です。日蓮聖人はその上行菩薩こそは自分だと覚りました。
 良薬、それは南無妙法蓮華経のお題目信仰です。
 南無妙法蓮華経とは、妙法蓮華経に南無するということです。
 妙法蓮華経は、釈尊、お釈迦様の説かれた根本経典、それが妙法蓮華経です。その妙法蓮華経はお釈迦様の魂なのです。寿量品の偈の中に「質直にして意柔軟一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず、時に我れ及び衆僧ともに霊鷲山に出ず」と説かれております。素直に正直に一生懸命に努力精進すれば、悟りを開くことが出来ましょうぞ。あなたの幸せが私の幸せです、と私は理解します。
 南無とはどういう意味ですか、それはインドの「ナーマ」という言葉です。
 その「ナーマ」が「南無」です。
 意味するところは、帰依する・帰命する・素直に随う等です。ですから、南無妙法蓮華経とは、私は妙法蓮華経に素直に随いますということです。素直に正直に一生懸命真剣に成仏することに随います、ということです。生きているうちに成仏するということです。成仏とは、努力して自分を覚るということです。
 日蓮聖人は「南無と申すは天竺の言葉にて候。漢土・日本には帰命し、と申す。帰命と申すはわが身を仏に奉ると申すことなり」と仰せになっております。また南無と申すは敬う心なり、随う心なりとも仰せになっております。
 行いとしてその行いは、お食事をいただく時、ご家族して手を合わせ「いただきます」とまずは合掌することです。お米や、野菜、お肉などの命を私はいただいて自分の命を保っているのです。
 「おはようございます」「こんにちは」「おかげさまで」「ありがとう」という挨拶です。
 ぜひ実行してください。
 以上柴崎文堯がお話させていただきました。