皆様おはようございます。暑い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の岡田行弘がお話いたします。
 あす8月13日からは、お盆です。お盆は、様々な仏教行事のなかでも最も広く親しまれております。皆さんも、お盆には、お墓まいりに行ったり、お位牌を仏壇から出して、その前に亡くなった方の好物をお供えしたり、というようなことをなさっていると思います。
仏教のお盆、正式には盂蘭盆といいますが、これには、次のようなお話がその起源になっています。
 お釈迦様のお弟子さん、直接の弟子は、一二五〇人といわれております。そのなかでも特に有名な十人のことを十大弟子といいますが、その一人に、目連という人物がおりました。目連は超人的な能力をもっていたので、神通第一と言われています。この目連は、ある時、神通力によって、今は亡き自分の母親が、餓鬼道、すなわち飢えと渇きに苦しめられる世界に堕ちているのを発見します。母親が餓鬼道に堕ちた原因というのは、慳貪の科(とが)、つまり物惜しみをした罪でした。
 驚いた目連は、お釈迦様に「どうしたら母親をこの悲惨な状態から救い出すことができるでしょうか」、と質問します。するとお釈迦様は、陰暦の7月15日、この日は、当時のインドにおいては、夏の雨期の3ヶ月間、仏の弟子達が一ヶ所に集まって修行していた期間が終了する日なのですが、この陰暦7月15日に、修行していた僧たちに対して、様々なご馳走、食べ物・飲み物を用意して供養しなさいと、教えました。目連が、お釈迦様に教えられたとおりに、この日に食べ物などの布施をしたところ、その功徳によって、母親は餓鬼道から救われた、ということです。
 日本では、先祖の霊が帰ってくるという古くからの民間信仰と今お話した盂蘭盆の説話が結びついたわけです。このようにして、月遅れの8月15日を前にして、帰ってきた先祖にお供えをし、供養するというお盆の行事が定着しました。
お盆にお坊さんが来たら、皆さんも一緒に手を合わせてください。そして、今は亡き人のことを思い出してみてください。
 ところで、親と子の関係というのも考えてみると不思議なものです。そもそも、自分がどの両親のもとに、どんな家庭に、いつ生まれてくるかわからない、そのようなことは自分の思い通りにはなりません。冗談半分に、親が勝手に生んだんだ、という人もいますが、親からしてみれば、こんな子が生まれてくるとは思わなかった、ともいえるわけです。
 子供が誕生して間もない時には、自分の子供は本当に可愛い、元気に育ってくれればもうそれだけで有り難い、というのが、親の正直な気持ちでしょう。ところが我が子が段々成長してくるとその気持ちが変化してくるわけです。自分の子供なんだから勉強ができて欲しい、スポーツが得意な子になって欲しい、と様々な期待をかけるようになります。子供のほうも、親が喜んだり、親に誉められたりすると嬉しいわけですから、それなりに頑張ってみる。
 この場合、親が期待する以上に、子供が結果を出せば、とりあえず、問題はないわけですが、そうでないと、いろいろと問題や悩みが生まれてきます。
 先日、奈良県でショッキングな事件がありました。医者を目指していた高校生一年生、彼はそれなりによく勉強していて、医学部への進学も十分可能だったということです。しかし、医師である父親から一流の国立大学医学部への合格を期待され、その重圧に苦しんだ挙句、家族を殺害し、自宅に放火したという事件が起こりました。全く悲劇としかいいようがありませんが、この事件の原因は父親の「自分の子供を自分の思い通りにする」というエゴイズムだと思います。
 そもそも自分自身でさえ、自分の思い通りにならない存在です。自分自身をコントロールすることは本当に難しい。いわんや、自分の子供とはいえ、自分とは別の生き物である子供を自分の思い通りにしようとするのは、とんでもない間違いなのです。まず大切なのは「自分の」という思い込みから、離れる、頭を冷やすということでしょう。
 子供は保護や愛情を必要としていますが、それは、子どもの成長を助けるために、親が自然に子供にたいして与えるものであって、自分の子だから、自分のものだから子育てする、ということではないと思います。
 では、逆に子どもは、親に対してどうすればいいのか、これを日蓮聖人を例にとって少しだけ考えてみましょう。
 日蓮聖人は、12歳の頃、両親のもとを離れ、現在の千葉県鴨川市にあります清澄寺というお寺にはいって仏教の勉強を始め、16歳で出家しました。したがって現代の一般的な親子に比べて、両親と一緒に生活された期間は短かったのです。出家したわけですから、両親のそばにいて、その世話をするというような機会はありませんでした。そのようなこともあってか、日蓮聖人は、両親にたいする孝行ということについて、殊のほか心にかけておられたようです。
 日蓮聖人は、ご自分にできる両親への報恩感謝は、法華経の行者として、法華経によって父母のみならず、一切の人々を仏に導くことであるとお考えになったのです。このことを聖人は、次のように述べておられます。
「父母の孝養 心にたらず、(中略)このたび首を法華経に奉りてその功徳を父母に回向せん」(『種種御振舞御書』)。
すなわち、自分は父母に対して、心ゆくまで孝行し養うということはできなかった、このたび、自分の首を法華経に捧げ、その功徳を父母に回向しよう、という意味です。法華経を説き広めることによって、両親にたいして真実の恩返しをする、これが聖人の歩まれた道でした。
自分の親を直接世話をする、これも大切な事です。しかし、日蓮聖人は、この世界を仏の世界にするということこそが、現在だけでなく、未来に続く親孝行になるんだ、という信念をもっておられたわけです。別の言い方をすれば、助けを必要としている人を分け隔てなく助ける、このような世界の実現を目指すということなのです。
 とはいえ、日蓮聖人は、本当に人間味にあふれるお人柄でした。両親を思うお気持ちは終生かわりませんでした。今の山梨県にあたる身延山で過ごされていた五十五歳のとき、日蓮聖人は、故郷の安房の国の住人である光日房という方に当てた手紙の中で、次のように父母に対する思いを吐露されています。
 「その時、父母の墓をもみよかしと、ふかく 思うゆへに いまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立つ雲までも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立ちてみるなり。」
 日蓮聖人は、故郷の人にこのような便りを書いているのです。「再び機会があれば、その時こそ、安房の国の両親のお墓へお参りしようとおもいますので、いまは故郷に帰りません。しかし、さすがに両親の眠る故郷は恋しく、吹いて来る風、立つ雲が東の方向からといえば、思わず庵を出て、その雲や風に触れ、庭に立ってみるのです。」と。
 身延山からみると、故郷の千葉県安房国は東の方向になります。その東の方から風が吹いてきたり、雲が湧き上がってきたりすると、両親のことを思い、その方向を眺めている、そのような日蓮聖人のお姿が、眼に浮かぶような気がいたします。
お盆の間、ご先祖に手を合わせ、亡き人を想いうかべてみてください。そのような皆さんのお姿に対し、ご先祖もきっと深い感謝の気持ちをもたれることでしょう。
 今朝は、瀬戸内市長船町福岡、妙興寺、岡田行弘がお話いたしました。