おはようございます。
私は、岡山市妹尾にあります。日蓮宗智応院というお寺の住職をさせていただいております。小原隆恵と申す者でございます。お取り持ち程、宜しくお願い申し上げます。
一年が経つのは早いもので、もう十二月でございます。十二月は師走といいます。師走とは師の僧がお経を上げるために、あちこち走り回るということに由来するという説があると、聞くことなどあります。
私が住職をしている智応院というお寺では、十二月になると住職が檀家にお伺いし、お飾りに付けるお札をお渡し、家の家内安全などのお経を上げる風習があります。
さて、人というものは自分のそばにあるのに気がつかないということがよくあるものです。
私は、沢山の人の前に出て話しなどしている人を見て、どのようにしたらあのように普段通りに出来るのだろうか、というようなことを思うことがあります。十一年程前まで、三十代の中頃まで、そのように思うことがよくあったようです。何故かというと、私は沢山の人の前では緊張してしまうことがよくありました。緊張するのは本当の自分ではないと思い込み、緊張感を和らげていつもの自分になりたいと思い、無理にリラックスしようとしてしまい、それが返って逆効果になるのか、もっと緊張した状態になっていたようです。
十一年程前、ある本屋で面白そうだなと思って購入した本に、次のような言葉が書いてありました。「プレッシャーをなくしてしまおうとするのはやめなさい。プレッシャーとどうつきあうかを考えなさい。」と書いていました。その言葉を「緊張をなくしてしまおうとするのはやめなさい。緊張とどうつきあうかを考えなさい。」というふうに自分の中で変えて考えました。そして、沢山の人の前に出る時にはその言葉を思い出すようになりました。すると前とは少し違った状態になってきたようです。
緊張とどう付き合おうかと考えることによって、緊張感と仲良くしている状態になっているような気がしています。
現在、私にとって「緊張とどう付き合うか」という言葉が宝物の一つになっています。皆様方も、ある考え方に気づいたことで、自分にとって宝物になったり、心のあり方が変わったことがあると思います。
妙法蓮華経の中に『衣裏繋珠の喩え』というお話があります。衣の裏に縫いつけた宝珠・宝の珠のお話しです。この話は『法華経講義』という本を参考にさせていただいております。
ある所にお酒好きな男がいました。親友の家に遊びに行ってお酒をご馳走になりましたが、つい飲み過ぎて酔いつぶれ、正体をなくし眠ってしまいました。この時、親友は外出せねばならない公務があることを思い出し(友人を残して家を出)ました。かねてより酒ぐせの悪いことを知っていましたので、まさかの時に役に立つようにと、その男の衣の裏に値段のつけようもない高価な宝珠・宝の珠を縫いつけて置きました。男は酔いつぶれていましたので、そのことに気が付きませんでした。やがて目をさまし、酒に酔って定まらない目付きで起き上がり、そのままふらふらと他国に流浪の旅に出て行ってしまいました。生来怠け者でしたので、ちゃんとした職を得て働くことが出来ず、わずかの賃金を貰って、その日暮らしが出来ればよいという程度で満足していました。
ところが、ある日、街をさまよっている時、かつて宝珠を縫いつけてくれた親友にばったり出会ったのです。親友はみすぼらしい友の姿を見ていいました。「何と愚かな人間だろう。ただ衣食を求め歩いてこの体たらくとは何ごとか。私は昔、お前さんがもっと楽な生活が出来るようにと思って、高価な宝珠を衣の裏に縫いつけて置いたが、あれはどうしたのか。たしかにあるはずだ。それを利用しないで、ただ苦労して自活の方法を求めているのは愚かなことだ。あの宝珠を元手にして商売をしなさい、そうすれば貧乏することはないのだよ。」
このようにいわれて、男は初めて宝珠のあることに気がつき、自分はもっと金持ちだということを自覚したのでした。
この物語の宝珠とは、物質的な価値というのではなく、精神的な価値のあるものをたとえているのです。私たちは、だれでも自分には気がつかないけれども、仏の心と智慧に相当する宝珠を持っているのです。それを仏性といいます。仏性とは人間が生まれつき持っている仏の性質をいうのです。ただ私たちは自分の仏性に気づかず、それを開発する努力と修養を怠っているのです。このお酒好きの男は、こういう私たちの凡夫の姿をたとえたものなのです。
日蓮聖人ご遺文『一生成仏鈔』の中には、
くもった鏡は磨けば綺麗に見えるようになります。我々の心の煩悩というもの、心を悩まし身をわずらわす欲によって迷い苦しんで磨いていない鏡のようなものです。これを磨けば、必ず仏の悟りのような明らかな鏡となるのです。深く信心を起こして朝も昼も夕も夜も怠らないように磨きましょう。それは、どのようにして磨けばよいのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えることが、磨くということなのですよ。とおっしゃっておられます。
南無妙法蓮華経とは妙法蓮華経の教えに帰依する・随う・敬うということです。
南無妙法蓮華経には妙法蓮華経の六万九千三百八十四文字が詰まっており、お釈迦様の功徳が具わっています。
そして、日蓮聖人は南無妙法蓮華経を身口意の三業に渡って受持することを勧められておられます。受持とは受けて、それを持っていることです。また、身口意とは、身とは体のこと・口とは口のことで唱えること・意とは心のことです。心と体で南無妙法蓮華経を受持し、口で南無妙法蓮華経を唱えて下さいと勧められておられます。
南無妙法蓮華経を受持して、南無妙法蓮華経を唱えて、生まれつき持っている仏性に気づくようにしたいものです。
そして、これからお迎えする年も幸福でありますことをお祈り申し上げます。
今朝は日蓮宗智応院住職の小原隆恵がお話しさせていただきました。