お早うございます。 岡山市上中野にあります正福寺住職稲垣宗孝でございます。朝の一時をおかりしてお話をさせていただきます。
 8月24日の産経新聞のコラム・正論の欄に筑波大名誉教授である村上和雄さんが『1万個の実をつけるトマトの教え』と題して所感を寄せられていました。私はこの題名を見ましたとき、4〜5年前灘崎町にありますサウスビレッジ・フアーマーズマーケットに行きました際、水耕栽培による巨大な温室トマトを見ていましたので、ひとしお興味を覚えました。マーケットでは温室の中で、巨大なトマト幹が枝を張り巡らせていました。網の目のような枝に無数の赤いトマトがなっています。私は、これを見たとき、これは、遺伝子の組み替えによってできたものだろうか、もし、ほかの植物にもこのようなことが可能ならば食料危機の心配はないなあと思ったものです。
 しかし、村上さんは、『このトマトは遺伝子組み替えによってできたものではない。最も多いときで、1万個以上が実るというから確かにすごい。その秘密は太陽の光と水と空気の恵みを受けて土なしで育てるところにある。水中の養分を補えば、根の部分は水中に浸しておくだけで栽培できる。つまり、植物がその生長能力を最大限に発揮する上で、土は不要ということなのだ。むしろ、土に根を生やしているために、潜在的な成長能力は一定に押さえられている。1万個も実をつけるトマトは、土とは無縁である。この巨大なトマトは、まだまだ私たちの知らない、無限ともいえる可能性を秘めていることを、見事に示した』と述べられ、続けて、『一方、科学用語のひとつに、最適規模(最も適した規模)、最適値・(最も適した値)という言葉がある。環境の中で最も適した数や量のことて゛自然界は、非常にうまくこの最適環境をまもっている。例えば、動物は、置かれた環境の中で数が増えすぎると、その後逆に減っていく。食べ物が足りなくなったり、ストレスがたまりすぎたりして、集団としての維持が不可能になっていくのである。自然界の植物は皆それぞれに最適値・最も適した数や量を持っている。』
 『この観点からすると、植物にとって一粒の種から1万個も実をつけることは本当によいことなのか。個別にその植物だけを取り出して考えるだけではその問題は解きほぐせない。大地、植物、光、水、大気という自然界全体の成り立ちを視野におめて初めて答えが導き出される。植物は大地に根を生やし成長して実をつける。その樹液や花の蜜などを食べて生きる小動物がいる。それを食べる動物もいる。死んだ動物は土に戻り、植物の養分となる。こうした巧みな循環がなされて、自然界は成り立っている。どこかの連鎖がたたれると、問題が生じる。木を切りすぎると動物もいなくなり、大地は枯渇化して砂漠化する。一粒の種だけが無際限に繁殖すると、全体が危機に瀕する。このように見てくると、普通のトマトが一粒の種から1万個も実をつけないのは、土によって本来の成長能力を邪魔されているのではなく、生態系全体の中で適正な規模を守っているからだとも考えられよう。』
 『トマトは遺伝子情報としては1万個を実らせる能力を書き込まれているのだろうが、ぎりぎりまで、発現させることは通常ないのである。複雑な生命体は、私たちの想像を超える潜在能力を持っていると見てよい。しかし、生物と自然との関わりあいの中で、能力の発現は一定に保たれる。つまり、生態系の秩序がたもたれるためには、最も適した値・数量がある。この生物の中に人間も含まれる。科学、技術を発達させ、際限なく生産の拡大を図るだけでは、人類はいつか行き詰まる。そして、次の世代に大きな負の遺産を残すことになる』と指摘されています。
 長文の引用になりましたが、正論に掲載されている深みのある内容、適切な語句をできるだけ正確に紹介したかったからです。
 私は、村上さんのコラムを幾度か読み返している内に、自然界の生物が存在する最適規模、最適値を形成している生態系の秩序とは、仏教徒が久しく遠い昔からこの地球に存在していると信じている仏ではないのかと思うようになりました。
 なぜならば、私たちの目には見えない久遠の仏は、その存在、教えを知らしめるために、二千数百年前に人間釈尊として、お生まれになり、悟りを開かれ、縁起という言葉で、この地球に存在するすべてのものは、お互いに関連しあい、共生して生存していると述べられているからです。
 仏とは、人間を含めた生物、広くは山川草木にいたるまでに備わっている特性、能力を認め、調和の中でそれを生かそうとするエネルギーのような存在ではないでしょうか。仏は『なるべく欲望を控え、足ることを知れ』と説かれました。このことが、一昔前までは、質素や節約の奨励、浪費、贅沢の戒めとなっていました。現代では、地球環境を守るために資源の浪費を戒める運動が起こっていますが大切なことだと思います。
 しかし、我が国での食生活のあり方などを見ていますと、まだまだ一人一人がこのことを自覚しているか否か疑問です。むしろ、豊かさの中で、物を大切にすると言う感覚が低下しているようです。昼食時、食堂に行きますと、多くの食べ残した食事が目につきます。朝、レストランの前には、たくさんのゴミ袋が並べられています。恐らく高価な食事を注文し惜しげもなく食べ残した者も多いことでしょう。
 もはや今の日本では『もったいない』という言葉が私語になってしまったのかとさえ思っていましたところ、先頃、ノーベル平和賞を受賞したアフリカはケニヤの女性環境保護活動かであるワンガリ・マータイさんが『もったいない』という日本の考え方を日本語のままで世界に普及しょうとしていることを知りました。
 日本で忘れ去られようとしていた『もったいない』が、その精神とともに、日本の言葉で世界に広められようとしていることに、私としては、何か忸怩たるものがあるようですが、なにわともあれ、マータイさんには感謝しなければならないでしょう。
 恐らく、お釈迦様が言葉として『もったいない』と言われたか否かは不明ですが、この言葉の根底に仏の教えがあるのは確かです。
 命あるもの同士の共存共栄を司る秩序と力を仏と信じれば、生活の中で、仏の教えを知り、考え、行うことが、ともすればエゴ・我欲に染まり、荒廃の度を深めようとしている世の中を再生する何よりの良薬になると思います。
     正福寺住職 稲垣宗孝でした。 ご静聴を感謝いたします。