皆様おはようございます。今朝もお元気にお目覚めのことと存じます。今朝は、備前北端の地、赤磐市周匝、日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話をさせていただきます。
 さて皆様にとっての幸福とはどんなことでしょうか。人によって感じ方が異なるのは当然であります。仕事に生きようとする人。家庭に生きようとする人。社会への奉仕に生きる人もあるでしょう。十人十色であることは価値あることです。しかし現代社会は、利己的個人主義的な傾向が強く、人間が人間と共に生きて暮らしているという実感が、急速に薄れてきており、他者との関わりが煩わしいと避け、自分だけの世界に浸りがたな時代となっているように思えます。自分さえよければ他はどうでもよいという独りよがりは、まさに地獄の相なのです。他者への気遣い、思いやり、いたわりが失われてしまっては、真の幸福を得ることは出来ないのです。
 仏教は、ことに法華経の教えは、真の幸福、その利益は社会のために奉仕をし自分の使命を全うすることを通じて、はじめて実現されるということを教えます。すなわち合掌の心で生きることをすすめる教えなのです。
 日蓮聖人は「人に物をおどこせば我が身のたすけとなる。譬えば、人のために火をともせば我がまえあきらかになるが如し」と述べられています。自分の方を明るくしたいと思うなら、反対に相手の所に光をともしてあげれば、灯台もと暗しのようにならず、自分の方もよく見える。人にあたえるということは、やがて自分が授かるもとになるということです。物があれ物を、力があれば力を、知識があれば知識をみんなに喜んであたえる人となりましょう。あたえるものがなれけば、自分のなかに培ってあたえましょう。自然界に目を移せば、小鳥は楽しい歌を、花はその美しさを、緑はその香りをおしまないで、私たちにあたえてくれています。あたえる心は人を豊かにし、惜しむ心はいのちをまずしくします。幸福とは、自分の目先の物的な利益を達成することではなく、自分の使命を知り、そしてまことを尽くす。命がけでやる。社会に奉仕するはたらきに心を尽くす。それを喜びとし生きがいとする。そこに真の幸福があるのです。合掌の心で生活すれば、徳をつくることができます。徳ある人となり、多くの人々に愛され助けられ、人望ある人ともなり、やがて幸せがおとずれます。すなわち合掌の心は徳ある人をつくり、本来の人の振り舞いが出来るようになります。しかも自分は自分自身がつくるのであって、他人がつくるのではありません。合掌の心で、まことの徳ある自分を、自分がつくらねばなりません。そしてつくることができるのです。
 多くの人は夢中でお金のみを追いかけます。それが人の心を豊かにしてくれると信じているからです。追いかけますと、確かにお金は手に入ります。しかしそれは一時的なもので、お金はすぐに手元を離れて逃げてゆきます。人がお金を追いかければ、お金は人から逃げてゆくのです。というのは、実はお金は逃げているのではなく、徳をおいかけているからです。そして徳はなかなかお金に追いつかれません。なぜなら徳は人を求めて走り続けているからです。「人」と「お金」と「徳」の三者が、互いに自分の欲しいものを追い求めているだけで、三者のいずれも、欲しいものを完全に手に入れることの出来ない関係にあります。
 人は物心ともに豊かになりたいと思うものです。そこで先ず、合掌の心と行いで、徳を追い求めて自分のものにするべきです。そうしますと、徳を追いかけているお金は、期せずして徳ある人のもとに集まるわけです。人が徳を身につけますと、お金は徳ある人を追うことになり、労せずして豊かになることが出来る道理です。合掌の心で生活すれば、物心ともに幸福になれるゆえんです。しかしお金を得る手段として徳を追い求めるべきではありません。自らの心を浄めるための合掌の心で、毎日毎日を、今の一瞬一瞬を生きていくとき、私どもは自然に、幸せや安らぎや悟りなどの功徳を、ゆずり与えられるのであり、その功徳は物心の福徳をもたらすものであるということです。しかも合掌の心は小さいときから、形を通してしつけられませんと、大人になってからでは、なかなか急に身につけることは難しいものです。子どもの時に合掌の形を先ず教えることが大切なのです。
 現在は、少年犯罪、いじめ、自殺といった命への不安がふくらんでいると同時に、軽んじられている時代のように思えます。平成十八年の漢字に「命」が選ばれました。私たちは、その命が母親のお腹の中にいるときは、ひたすら無事に生まれてきてほしいと願い、生まれてきたらきたで、ちょっとくしゃみでもしようなら、風邪を引いたのではないかと慌て、ちょっとでも泣くと、お腹が空いているんじゃないか、オムツが濡れているんじゃないかと大騒ぎ。よちよち歩きをするようになると転ぶんじゃないか、ぶつかるんじゃないかと、あとをついてまわり、ここ数年の子どもに関する痛ましい事件、子どもが狙われる不安や危険な出来事を考えれば、家の中に閉じ込めておければ、どんなに安心だろうとさえ思う親御さんもいらっしゃることでしょう。
 「おかあさんといっしょ」というテレビ番組で、体操のお兄さんをつとめていた、佐藤弘道さんが『子どもはぜんぜん悪くない』という本のなかで、
 僕たち親がしなければならないのは、子供の成長を見守ること。子供に手をかけ、心をかけて、大切に大切に育てるのはもちろんですが、大切に保護して育てることと、なんでも先回りして、すべて整えてしまうのは、まったく違うことです。それは「保護」ではなく、「過干渉」であり、子供から自信をつける機会を奪っているともいえます。
と、書かれていました。
 この言葉には、子ども達とのキャンプ合宿での体験があったそうです。みんなで昼食を食べていたら、子ども達が「くさ〜い!」と言い始めた。どうも「大」のにおいがしたそうです。でも、だれも名乗らない。一人一人お尻のにおいを嗅いでいったら、「大」をおもらししながら、ご飯を食べている子がいた。でも、その子はこう言ったそうです。「だって、先生がトイレに行けばって言わなかったから」と。おそらくその子の両親は、ことある事に、「トイレはいいの?」「トイレに行って来なさい」と言われていて、トイレは「出そうだから行く」のではなく、「言われたから行くもの」になってしまったのでしょう。また別の年のキャンプ合宿では、みんなでバナナを食べていたときのこと。一人の子がいつまでたってもバナナを持ったまま食べようとしない。「どしたの?」と聞くと、「だれもバナナの皮をむいてくれないんだもん」と、言ったそうです。最近の子どもは指示待ちで、人から何か言われなくては、してもらわなくては何も出来ないくなっている。しかし指示待ちの子どもにしているのは大人である、と指摘しています。
 親は、わが子を大切にするがあまり、悲しみや苦しみをなるべく体験しないように。子どもに心配も苦労もさせないように育てることが、親の愛情の深さだと考えている親御さんがいます。しかし何事にも先回りして子どもを保護することは、さまざまに体験する機会を奪ってしまっていることにもなるのです。しかも自分のことを大事にすることは教えても、人の痛みについて、命の尊さについてはどれほど教えているのでしょうか。さまざまな試練にほとんど遭っていない子ども達は、いざ試練にさらされたとき、対処の仕方がわからず、他人の痛みを察する能力も身につけていないために、信じ難いような行動に走るのです。
 合掌の心とは信心ということです。日蓮聖人は「信というは、事において誠を致し、僻事(ひがごと=道理にあわないこと・不正)をなさず、心の底に思いさとる、是なり」と云われています。正しい信心は、正しい信心のことばである、お題目を唱えることによってつちかわれるのです。信心の心を身にもって外に形としてあらわしたのが、合掌礼拝であります。合掌の心の中にこそ、人生を成功と幸福へ導く決め手があることを忘れてはならないのです。家庭のなかに、子ども達の心に仏さまの大慈大悲の心を、合掌の心でしっかりと育てましょう。
 今朝は、赤磐市周匝、蓮現寺住職、堀江宏文がお話をさせていただきました。