皆様おはようございます。今朝もお元気にお目覚めのことと存じます。今朝は、赤磐市周匝、日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話をさせていただきます。
 先日、今年の寒修行が無事に終わりました。寒修行とは一年で最も寒さの厳しい一月から二月の立春までの時期に、お経を読み、お題目を唱え、団扇太鼓をたたき、家を一軒一軒拝みながら歩く修行のことです。私のお寺では、一月五日の小寒の入りから二月三日の立春・大寒の明けまで寒中三十日間、毎晩七時から行っております。その様子が、昨年(平成十七年)二月一日のNHK岡山放送「きびきびワイド六一〇」ビデオ便りのコーナーで放送されました。これまで宗教色のあるビデオは、採用が難しいとされてきましたが、有り難くも放送して下さったのです。しかも続いて中四国での放送予定もあったそうですが、二度にわたる国会中継延長の都合で、残念ながら放送されなかったようです。
 出発前は、寒さに手がかじかみ、体を震えながらお寺をあとにするのですが、約一時間。拝む地区によると二時間の寒修行を終えた頃には、タオルで流れる汗を拭き取るほど、体が温まっています。参加された方も「着てくる服が一枚多かったな」との声があるほどです。なかには、「今晩は温かいから寒修行にはならないですね」「これじゃお陰は少ないな」と笑顔ながらに話す方もいらっしゃいます。こうして毎晩、三十人前後の皆さんが熱心に参加下います。そしてわたしも「今日も頑張ろう」と大太鼓を握る手に力が入るのです。
 寒修行に参加される方は、ご自身の信行の心を養うことは基より、家族の所願成就や地域全体の安泰を願って参加されます。夜道に足下の不安を感じられる方は、家のご仏壇の前でお題目を唱えておられます。また、家の前に出て、私たちが通り過ぎるまで合掌して、一緒に拝んで下さる方、またはお子さんやお孫さんと一緒に、玄関で正座をして拝んで下さる家もあります。まさに家族一同が手を合わせる心を持った家庭なのです。こうした家庭をみたとき、三世代が一緒に住んでいる場合が多いことに気づきます。おそらく、日頃からしつけや家庭教育がなされ、おじいちゃんやおばあちゃん、ご両親の姿を見て育ってきた子供たちなのでしょう。
 数年前、あるテレビ局が非常に興味深い実験をしていました。電車で化粧をする女性たちを探る実験です。実験では二十代の女性たちに別々の電車に乗ってもらい、目的地の駅に辿り着くまでに化粧をしてもらうのです。しかもこの女性たちは、二つのタイプの家族構成から選ばれていました。三世代家族で育った女性たちと核家族で育った女性たちです。実験が始まるとまず、三世代家族のグループは、周囲を見回して乗客の目を気にしつつ、口紅を引く人、眉を描く人はいましたが、次の駅でより多くの乗客が乗り込んで来た途端、化粧ポーチをしまい込みました。なかには、電車の中では一切化粧をせず、目的地の駅に到着してから洗面所に入りそこで化粧をしたのです。これとは対照的に核家族の女性グループは、なんのためらいもなく全員が目的地に着くまで鏡の中の自分と睨めっこ、ずっと化粧を続けていました。各人の性格や実験の趣旨などがわからなかったという点も考慮しなければならないでしょうが、あまりにも三世代家族と核家族の女性たちとの間に周囲への配慮、節度や礼儀等といった点で相違があることに驚きました。このことは車内で携帯電話を使う人、床に座り込む人、町中でのタバコや空き缶のポイ捨てなども同じ類と言えます。 家族構成の下での相違は、しつけや家庭教育に大きな差があるのではないでしょうか。かつての先人たちは、受け継いできたさまざまな教えを各々の世代でしっかり守り、それを次の世代にバトンタッチしてくれました。世代間をつなぐその軸が今失われているのです。「時代の風潮だから仕方がない」で終わらせるのではなく、大人たちがその失われた分を埋め合わせ、子どもたちの世代に伝えていく努力をしなければならないはずが、その努力が不足している。とても足りないのです。
 すべてのものは、自分自身だけで存在するものではありません。誰でも自分一人で自分になった人はなく、数限りない物や人のおかげで、どうにか人間として生まれ生きているからです。すべてのものは縁って起こっている、という縁起の法を知ったとき、感謝の心、報恩の心が生じるのです。人生には様々な生き方があります。順調な日は少なく、逆風に立ち向かう厳しい日の方が多いのです。しかし人生の苦しみや幸せというものの大半は、人間同志の行いから生ずるものです。親子、夫婦、兄弟、親戚、近隣、会社、学校、友達とどれをとってみても、皆、人間同志の付き合いであって、それが上手く行くかどうかによって幸、不幸が分かれるのであります。日蓮聖人は「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ」と教示されています。人の幸、不幸の大半は人間自身が作り上げて来ているのですから、振る舞いの大切さをよく心掛けなければなりません。人として本来の振る舞いが出来る人は、心が輝いている人です。「自分が自分が」という貪りの心を起こさずに、感謝の念、報恩の念を抱く人は慈悲の心を持つ人で、掌を合わせることの出来る人です。この掌を合わせる、合掌という姿は、仏さまを拝む時だけのものではありません。
 合掌は、その拝む対象によって様々な意味を持ちます。仏さまに合掌すれば信心となり、父母に合掌すれば孝行となり、お互いが合掌すれば和合となり、目上に合掌すれば敬愛となり、物に合掌すれば感謝となります。このように、合掌もその対象によって効果も違ってきますが、人間関係に良い結果を生むことだけは確かであります。
 お釈迦さまは毎朝、合掌して六方を礼拝することが、大切な仏道修行の一つとして示されました。東西南北の四方と上下をあわせて六方と申します。お釈迦さまは次の如く説かれています。 
 東方を礼拝するのは、父母を拝すると思うがよい。父母はその子を愛し、その子を悪よりとおざけ、技能をさずけ、その家をつがしめる。これが父母を拝する理由である。
 南方を礼拝するのは、師匠を拝すると思うがよい。師匠はその弟子を教え倦む(飽きる)ことがない。弟子はその師匠を尊敬し、その教えを忘れてはならない。これが師匠を拝する理由である。
 西方を礼拝するのは、妻を拝すると思うがよい。夫は妻に家事をたのみ、妻は夫に対して敬順でなくてはならない。これが妻をおがむ理由である。
 北方を礼拝するのは、親族を拝すると思うがよい。親族は互いに助け合い励ましあわなければならない。これが親族をおがむ理由である。
 下方を礼拝するのは、使用人や部下の人々を拝すると思うがよい。主人や上司は彼らに情けをかけるべきであり、彼らは主人や上司に忠実でなければならない。これが使用人や部下の人々に対する礼拝である。
 上方を礼拝するのは、聖者を拝すると思うがよい。聖者は人々に正しい道を教え善に入らしめ、人々に安らぎの境地を与える。これが上方を拝する理由である。
 これがお釈迦さまの教えたところであります。礼拝はただ方角を拝んで災いを避けようるすることではなく、人間としての六方の心を守って、内から湧いてくる災いを、自ら防ぎとどめることであると知るべきです。礼拝の基本となる大切な姿は合掌なのです。合掌の心、礼拝の心は心より入ることが望ましいですが、形から入る必要もあります。形より入って心を培うことも大切だからです。合掌・礼拝の心とその行いは、必ず徳のある人をつくり、他人から感謝されるような振る舞いができるようになります。その結果、住みよい社会、あたたかい家庭が生まれるのであります。しつけや家庭教育のなかに、真の合掌の心、人の振る舞いの大切さを教え、世のなかを住みやすくして行きましょう。
 今朝は、赤磐市周匝、蓮現寺住職、堀江宏文がお話をさせていただきました。