皆様おはようございます。なんとなく秋をかんじらるようになりました。お元気でお過ごしでしょうか。今朝は加賀郡吉備中央町、旧賀陽町にあります日蓮宗妙本寺の平野信行がお話させていただきます。
 今月はお彼岸の月になりますが、先月はお盆の月でございました。皆様もご先祖様をお迎えしご供養を行なわれた事と思います。お盆の行事の中で檀家様のお宅を一軒一軒お参りさせていただく、お経廻りがございます。今年も8月の初めからお参りさせていただきました。毎年、同じ家をお参りしますが、色々な事があります。
そんな中で 今年はこんなことがございました。
95歳の一人暮らしをされているおじいさんのお宅にお邪魔したときのことです。お参りする他のお宅と同じようにお経を唱え、しばらくの間お話をさせていただきました。おじいさんは耳が不自由なだけで体は至って元気にお過ごしです。週に二日は来られるヘルパーさんに掃除や洗濯のお手伝いはしてもらっても、食事だけは足腰の丈夫なうちは、自転車で自分の好きなものを買い、自分で作って食べているそうです。(95歳というお年なのにすごいなー)と感心しながら、時間もないので「そろそろ失礼させていただきます」といいますと、突然、おじいさんは「お上人さん、ゴーヤジュースを作ってあげます」と言うんですね。せっかくのご好意に、時間もなかったので「申し訳ないのですが、先を急ぎますので失礼させて下さい」と言いますと、そのことが聞こえなかったか、わかりませんが「わかりました」と言ったきり、台所に向かっていきました。直ぐさま台所から、「トン・トン・トン」と何かを刻んでいる音が聞こえてきます。そしてまたしばらくするとミキサーの音が聞こえてきます。そーっと、台所を覗きますと、汗を拭きながら一生懸命、そのゴーヤジュースを作って下さっていました。仕方なく居間でゴーヤジュースが出てくるのを待っていますと、台所からおじいさんがニコニコしながら、コップにたっぷりと入ったゴーヤジュースをもって来てくださいました。牛乳と蜂蜜の入ったゴーヤジュースは夏バテや糖尿病にも効くそうです。一気に頂きました。私はゴーヤの苦味があるのかと思っていましたが、とても飲みやすく、味もとても美味しかったのです。
私が、なによりも嬉しかったのは、95歳のおじいさんが、私のような者に汗を流しながら一生懸命作ってくさださっていた、そのお気持ちがとてもうれしく、ありがたかったのです。私が、もし95歳になったとき同じようなことが出来るだろうか?と思いました。一人暮らしで、自分の事だけでも精一杯のはずなのに、そこまで気を使って下さったおじいさんの姿に頭の下がる思いがいたしました。
ゴーヤジュースを飲み終わり、改めて仏壇に手を合わせ帰ろうとしますと、ふと仏壇の片隅の、小さな紙に書かれた戒名が目にとまりました。その戒名の事をおじいさんに聞いてみますと、おじいさんはためらいながら話してくださいました。「実は、4月に東京にいる息子が死んでしまったんです」「10年前にも妻に先立たれてしまい、この年になって息子にまで先立たれるとは、思いもしませんでした。」「東京ですから・・・息子の葬式にもよう行かなんだんです」遠くを見ながら話しているおじいさんの目には涙がいっぱいたまっていました。「お上人さん、このジュースは息子に教えてもらったんです。私が糖尿の気があるからこうやって作って飲んでみなさい。と息子に言われまして」「その息子も死んでしまいました。私は、息子が死んでから、こうやって、うちに来る人にこのゴーヤジュースを作って飲んでいただいているんです」「それが少しでも息子の供養になるかと思いまして」 「お上人さん、私は思うんです。何でもいい、自分の出来る範囲で人に親切にすれば、その人が私のした親切のことを思い出して、また他の人に親切にすると思うんです。そういう人が増えてくれれば、世の中みんなが親切になると思うんです」「私の作ったジュースをありがたいと思ってくれるかどうかはわかりませんが、私のした親切がまわりまわって孫やひ孫にも届きはしないかとも思っているんです。人様が喜んでくれればいい。それだけです」と。おじいさんは話終わるとなんともいえない笑顔をされていました。
最近、こんな暖かいお気持ちに出会うことも少なくなってしまったように感じました。
人への親切とは、なかなか出来ないものです。困っている人がいても見て見ぬ不利をする人が多くなったように思います。ちょっとでも、人への親切や施しをすれば「僕がした!私がしたんじゃ!」と自己顕示欲に溢れる昨今、とても嬉しいお話を聞かせていただきました。
 私はふと法華経の化城喩品第七に説かれてある普回向の文句を思い出しました。
「願わくばこの功徳をもってあまねく一切に及ぼし我らの衆生と皆共に仏道を成ぜん。」
この経文は「普回向」ともよばれていますが、日蓮宗に限らず宗派を超えて唱えられています。言葉の意味は、自分たちが捧げた供養の功徳を自分たちだけで独り占めするのではなく、あまねく一切の人々にいきわたり、しかも自分たちとすべての人々がともに最上の悟りが得られますようにと願っているのです。
 自分が行なった善根の功徳を自分ばかりか、人々の幸福のために差し向けることの大切さが説かれています。
ゴーヤジュースを教えてくれた息子がなくなり、その供養にと、お経も一生懸命唱えられますが、95才というご高齢でありながら自分の出来ることを、出来る限り、人様のために行なっていこうとされているおじいさんの姿にその言葉思い出しました。
私たちは仏様に対しての供養や施しは勿論ですが、人に対する親切や世話は見返りを求めるような下心があれば、その行為の価値はまったく無くなります。ましてや「わしがしたんじゃ。どうだ。」などと、人に自慢するような事があってはなりません。施しに対しての見返りを期待し、外れた時には愚痴となり怒りに変わります。「あんなに親切にしてあげたのに知らん顔。」…よく耳にします。「してあげた。」のではなく、「させていただいた。」という気持ちが大切だと思います。当たり前のことですが、逆にご恩を受けたほうは、そのご恩を決して忘れてはいけないのです。
 私たちは残念ながら決して一人では生きていけません。誰にもお世話にならず、迷惑も掛けずに生きている人はいないはずです。生きているのではなく生かされているんですね。私たち一人一人がそう感じたとき、人と人が助け合い、お互い協力し合い、生かされていることに気が付いたとき、そこに感謝する心の大切さがうまれてくると、私はおじいさんから作ってくださった一杯のゴーヤジュースをいただき、改めて感じさせられました。
本日は加賀郡吉備中央町の妙本寺平野信行がお話させていただきました。