おはようございます。今日は岡山市菅野、幸福寺の藤田裕正がお話しいたします。
 今年も無事に寒行が終わりました。寒行とは一年で最も寒い一月から二月の立春までの間の寒の時期に、団扇太鼓をたたきながら、家を一軒一軒拝みながら歩く修行のことです。剣道や柔道にも「寒稽古」がありますが、ともに精神を高めるにはだいじな修行です。夜歩くお寺もありますが、私のお寺では、朝8時過ぎから夕方4時ごろまで歩く形をとっています。訪れる家の安泰を祈る寒行参加者の思いと、今年も大勢で来てもらえたという迎える側の思いとが、合掌の姿で挨拶しあう中につながってうれしいものです。寒い寒いと言いながらも新たな人が加わって、30人40人に参加者が増える。さあ、今年の寒行も頑張ろうとなります。
 一年間に檀家のお経をあげて回る機会が数回ありますが、いろいろな話が聞けたり話したりする楽しみがあります。
 年末にお経に伺ったときにこんな話がありました。
銭湯・お風呂屋さんでのことです。「今日はお風呂の中に蜜柑が浮いとったけど、どうしたん」と若い人が尋ねたそうです。ちょうど「冬至」だったので銭湯の奥さんがユズを入れておいたのが、そう見えたのでしょう。最近は家庭でもユズ湯をするところが少なくなってきました。日本の伝統行事の一つです。これから一番寒い時期を迎えるけれど、身体を芯から温めて無事に寒さを乗り切ってほしいという家族の祈りのこもった行事です。
 五月になると「今日は草が浮いとったけど何かあったん」と尋ねられる。草とは菖蒲のこと。節句に菖蒲湯をしたのが、草が浮いているように見えたのでしょう。邪気を払い菖蒲のように天に向って真っ直ぐに育ってほしいという成長への願いが込められています。
 「ユズ湯」も「菖蒲湯」も家族を思いやる大切な行事です。
 まだまだ日本に伝わる伝統行事はたくさんあります。でも知らない人が増えてきました。核家族の社会の中に伝わりにくい構造も感じられます。
 お釈迦様の教えもなかなか家庭の中で伝わりにくくなりました。お経の中にはいろいろなたとえ話が説かれています。その一つを紹介しましょう。

 仲のよい二人の幼友達がありました。一人は運がよく成功して億万長者と言われる身分になりましたが、一人は運が悪く失敗続きで、今は乞食同然のみじめな生活におちぶれました。貧乏な友だちは長者の館の前を通りかかり、懐かしさの余り長者の友人を訪ねました。
 幼友達のこととてみすぼらしい友人を哀れに思って客間に通し、山海の珍味と言われる料理に酒までつけてもてなしました。貧乏な友人は食べたこともない料理を腹一杯よばれ、酒もたらふく飲んで酔っ払って寝てしまいました。長者は忙しい身とて外へ出かけなければならなくなりました。どうしても出発しなければならない時間がきても、貧乏な男の酒の酔いは覚めず、前後不覚の状態なので、長者はその貧乏な男の襟に非常に価値のある宝石を縫い付けてやり、「この宝石を元手にして、裕福で幸せな生活を送ってくれるように」と念じながら、起こしても起きないので、いたしかたなく出発してしまいました。しばらくしてやっと正気に戻った男は、何も知らせずに自分を置き去りにしてこっそり行ってしまった長者を恨みながら、その家を立ち出で帰って行きました。しかし、よい職にもありつけず、その日暮らしのみじめな毎日でありましたが、自分にはそれだけの能力しかないのだとあきらめてしまい、着物の襟にある宝石のことなど全く気が付かないで毎日を過ごしていました。
 何年かの後、またその親友同士は再会しましたが、依然として乞食のような生活をしている貧乏な男を見ると、長者は驚くとともに悲しんで、「私は君が安楽に暮らしていけるようにと思って、寝ていた君の着物の襟に非常に高価な宝石を縫い付けて置いたのに、どうしてそれを役立てないのか。そのようななりをして身を粉にして働き、それだけで満足しているなどとは愚の骨頂である。襟に縫い付けてある宝石を町に持って行き、それを売った金を元手にして商売をしなさい。それほど立派な宝石を持っていることに気付かないなんてあきれ果てたものだ。宝石を金に替えただけでも必要なものを充分に買うことができ、一生の間安楽に過ごせるどころか、大変な金持ちになれるのだ」と教えさとしました。
 このたとえ話を「衣裏宝珠のたとえ」つまり「着物の襟に縫い付けられた宝石のたとえ」と呼んでいます。
 仏は、大慈悲の心をもってあらゆる人々の着物の襟にすばらしい宝石を縫い付けてくれています。ここでいう宝石とは、言葉を変えて言えば「仏となるタネ」のことであり、「仏になる可能性」のことです。その宝石を誰もが授かっているのに、かの「貧乏な男」と同じで、ただそれに気が付かないわけです。
 皆さんの襟にも宝石が縫い付けられているのであり、皆さんの一人一人に「仏となるタネ」が備わっているのです。その宝石のことを「仏性」と呼ぶのです。
 ただその宝石・仏性を磨くか磨かないかの違いが、凡夫と仏の違いなのです。凡夫衆生は仏から尊い仏性をいただきながら、それに気付かず覚らず、五欲煩悩にまみれ、日々苦悩の生活を続けている。一日も早く仏性に目覚めて仏の境界に入らねばならぬことを教えられています。
 お釈迦様は、私たちは三つの毒を持っていると言われます。一つは欲。あまりにも深くなると貪欲になります。親が子に、子が親に保険金をかけて殺人を起こした事件もありました。二つ目は怒り。大きくなると戦争となります。三つ目は愚痴、ねたみです。
 相田みつをという詩人が愚痴をこのように表現しています。
  「だれにだって、あるんだよ
   ひとにいえない、くるしみが
   だれにだって、あるんだよ
   ひとにいえない、かなしみが
   ただ、だまっている、だけなんだよ
   いえば、ぐちになるから」
 私たちは仏から尊い仏性を与えられているにもかかわらず、三毒といわれる煩悩の為にわが身の仏性を覚らず他の仏性を見ることができず、日々迷いの生活のうちに苦悩を続けていると示されます。お釈迦様は、心を素直に保って一心に仏を見るならば仏性が開かれるであろうし、私もそれを願って手を差し伸べているのだよ、とお経の中に説かれています。
 お経は仏壇の前だけで唱えるものではありません。行住座伏、茶の間でも、職場でも、車に乗っていても、道を歩いていても、あさましい煩悩三毒の心が起こったとき「ああここだ、南無・・・・・」と私の仏性を開発するとともに、相手の仏性も拝む心を養わなければなりません。自分がそれに気付いたら、家族に、まわりに、その心を伝える努力をする。そこに争いのない平和な世界がつくられていくのです。
先祖は長い伝統の中に、心を育む大切なものを織り込んで伝えてきました。お釈迦様は人が持つべき永久不変の教えを説いてこられました。家庭・社会が混迷の色を濃くする中に、心を広げ、受け入れてみませんか。

 幸福寺の藤田裕正がお話いたしました。