お早うございます。岡山市上中野にあります宗善山正福寺の住職稲垣宗孝でございます。朝の一時をお借りして、お話をさせていたきます。
 今年は阪神淡路大震災の10年目にあたりました。年が明けますと、このことが報道機関で大きく取り上げられていました。テレビなどを見ておりますと、10年前の1月17日のことがはっきりと思いだされます。日本人の脳裏に強く焼き付いているのでしょうが、それと共に、いまだ記憶にも新しい、昨年も後半に起こった新潟中越地震、さらに、莫大な死傷者を出したスマトラ沖地震による津波被害の恐ろしさが、一層10年前の記憶を鮮明にしているのかもしれません。
 私達の宗祖であります日蓮聖人は鎌倉時代、いまから凡そ750年程前、立正安国論という論文を幕府にだされました。
 その冒頭に『旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで天変、地夭、飢饉、疫癘あまねく天下に満ち、広く地上にはびこる、牛馬巷に倒れ、骸骨路にみてり、死を招くのともがらすでに大半に超え、これを悲しまざるの輩敢えて1人もなし』と述べておられます。
 当時も大地震や台風などの災害が続き、飢饉がおこり、疫病が流行したようです。しかし、750年前の鎌倉時代ですので幕府としても救済しょうにもできなかったのでしょう。もし、あの時代に阪神淡路大震災のようなものがおこっていれば、やはり、牛馬は町のいたるところに倒れ、死人はあふれていたでしょう。そして、難を逃れたものも、自分が生きるために、他人の不幸を顧みる余裕もなかったでしょう。
 現代は同じような不幸でも、国や社会は救助、支援をしました。全国からボランティアも集まりました。世界各国からも支援要請がありました。義捐金も寄せられました。中越地震でも、スマトラ沖地震でも同様のことが行われています。神戸では心配された盗み等の犯罪もありませんでした。世界の国々はこのことを賞賛していました。
 もっとも、このことについて、著名な作家である曾野綾子さんは、それは、大事ではあったが、あくまでも神戸、淡路という一部地域のことで、もしこれが全国的なものであれば、果たしてどうであったか、お互いに助け合う余裕があったかどうか疑問であるともいっていましたが、それはともかく、神戸が地域の人々の努力と、全国の善意により今日復興できたことは、まだまだ日本は良い面が多いと思います。
 反面、最近強く案じますのは、年々、おぞましい犯罪が多発するようになっていることです。子供の誘拐、殺人、虐待はては異常者による快楽殺人など、外国人の犯罪も加えて、目や耳を覆いたくなるような事件が度々報道されます。青少年の犯罪も増加、これまで世界の中でトップクラスであった学力も低下し始めたとか。
 多くの人々は市民として、良識ある生活をし、社会の安定は保たれてはいますが、このような事件が多発するのはやはり何か世の中で欠けているものがあるのではないかと思えてなりません。
 阪神淡路大震災の時には、復興しょうという目的があったから、あの地域で犯罪は少なかったのでしょうか。前の大戦で日本は至る所焼土と化しました。飢えをしのぎ豊かになろうとみんな懸命に働きました。その過程では今日のような犯罪はまれだったとおもいます。終戦から60年、人間は目的をもち頑張っている内は適度の良識と、物事を得ることと、得た喜びのために、さらに前向きに精進しょうと言う気持ちになれるようです。
 しかし、目的が成就するか、あるいは、これ以上努力することはない、したくない。と感じ始めたとき、精神はゆるみ、ゆがみ、自己本位の快楽を求めるようになるようです。現代の日本の底辺には何か表現しにくい、ゆがみ、ひずみ、怠慢、そして一時の快楽を求めようとする空気が漂っているのだと思います。
 最近、東京都知事である石原慎太郎さんが、新聞のコラムで社会の犯罪を憂い『人間の欲望や衝動にはいろいろあり、すべて物事は度合いの問題だと考えているつもりだが、昨今の日本の社会の露骨な出来事は、何かのカタがはずれてしまったことによる、個々人の極端な肥大化現象に起因するものと思う。それは丁度テレビや雑誌の報道でよく目にする、身体に悪いと思いにながらどうにもやめられずジャンクフード(添加物の多い高カロリー食品)に手を出し続け、危険なまでに太って自分1人での歩行が困難になってしまった人間達に酷似している』と述べていますが、鋭い指摘だと思います。
 仏教でも、『欲を少なくして足ることを知れ』と欲望(煩悩)を抑制気味にとらえています。個人の欲望が肥大かすると、その人だけでなく世の中までもが混乱すると教えています。
 しかし、欲望は貧しい人々や社会を豊かにしょうとする原動力にもなります。戦後の復興もそうでした。今の神戸の町も一見しただけでは震災当時被害の跡形は見えません。
 新潟中越地震の被災地域も時と共に復興するでしょう。その意味では、欲望の力は大きなものです。一方的に否定はできません。しかし、努力が、衣食住を満足することにのみ重きをおいたものであったとしたら、心までは豊かにならないようです。
 諺に『衣食足りて礼節を知る』とありますが、衣食足りた現代、礼節は伴っているでしようか。伴っているとは言いにくいと思います。
 礼節とは、人間として礼儀、道徳を重んじることです。そして、それが世の中の良識として人々の間に確たる共通認識になるためには、衣食がたりた結果として自然に礼節が身に付くのではなく、常日頃から、家庭の中で、教育の場で、社交の場で礼節の大切さを認識できるように勤めねばならないと思います。
 日本の長い歴史の中で、良い面、悪い面もあったでしょう。それでも、今日私達が、日本の中で生きていけるのは、悪い面より、良い面が多かったからだと思います。先人の業績、生き様、教えの中には現代の私達が参考にしなければならないものも多々あるはずです。
 伝統を尊び、伝統を生かし、後世に良き伝統習慣を残すという心がけが常日頃からなされていれば、本当の意味で衣食足りて礼節を知る人格ができるのではないでしょうか。
 そうすれば、真に、個人も社会も物と心で共に豊かになることができるはずです。仏教で説く『煩悩即菩提』とはこのことです。戦後の苦しいとき、豊かになりたいと一心不乱に歩んでいた頃こら今日まで、一方において礼節を重んじる強い願いと行動も含まれていたならば、現在の忌まわしい事件やこれらに伴うおもぐるしい沈滞した空気はもっと薄まっていたのではないでしょうか。
 日蓮聖人は前述した『立正安国論』の中で、『汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ』と仰せになりました。
 即ち「実乗の一善とは、安心して信じることのできる尊い教え法華経、お題目のことです。
 現代からは想像もできないような貧しい、厳しい世の中で、だからこそと言うべきでしょうか。日蓮聖人は宗教の改革者として数々の困難を忍んで日本人の精神の高揚を法華経信仰に求められました。もし現代におでになれば、衣食たりて、礼節を失いつつあるような世の中に、礼節を尊ぶことは、実乗の一善であり、お題目の精神であると、仰せになると思います。
 今一度、私達は、特に年長者は、我が国を再生するつもりで、自身を正し、他にも呼びかける努力をしなければならないと思う今日この頃です。