おはようございます。今朝も元気にお目覚めでしょうか?
今朝は備前市浦伊部、妙圀寺住職、平野光照がお話させていただきます。
 
 十月十三日は、日蓮聖人がお亡くなりになられた聖日です。現在の東京都大田区池上で、六十一歳の波乱に充ちたご生涯を静かに閉じられました。今朝はその日蓮聖人を偲びたいと思います。
 日蓮聖人のご生涯については、皆さんもうご存知でしょうが、お生まれは現在の千葉県の最南端小湊です。鎌倉時代の貞応元年(一二二二)のことです。幼少にして近くの清澄寺に入門、勉学に励まれましたが、ものたらず鎌倉へ出られ、さらに比叡山へと足をのばされています。比叡で学ばれる事十数年、その間、京都や奈良、高野山などにも赴き、お釈迦さまの真実の教えは何かと求め続けられました。「真実は法華経にあり」との答えをいただくや、急ぎ故郷の清澄寺にもどられ、今後どんな迫害にあおうとも、お釈迦さまの真実の教えを伝えねばならないと宣言され、時の中心鎌倉へと旅立ちます。日蓮聖人三十二歳のことです。
 始めから覚悟はしていたものの、草庵の焼き討ちや、さらに伊豆への島流し、など、つぎつぎの迫害にあわれます。最大の危機は文永八年(一二七一)日蓮聖人五十歳の『龍ノ口の法難』です。理不尽にとらえられ、表向きは佐渡流罪でしたが、密かに夜のうちに首を切ってしまえという事にしていたようです。それでも日蓮聖人は堂々と首の座にすわられますが、不思議な事に突然突風がふき、聖人の言葉をかりると「月のごとき光物跳び来たり」といった状態で、処刑はまぬがれ、結局佐渡流罪という事になりました。
 日蓮聖人は佐渡で二年半過ごされましたが、不思議な事に隠れて食物を運んでくれる信者さんができ、生き長らえ無事鎌倉に帰っておられます。その後、現在の山梨県身延山に入られ、晩年の九ヵ年を過ごされました。身延山では心安く法華経読誦の日々を送っておられます。その後、病の治癒の為にと身延を出られ、今の東京池上で弟子・信徒に囲まれ静かにお亡くなりになられたのです。弘安五年(一二八二)十月十三日のことです。
 
 日蓮聖人は多くの書簡を残しておられます。現在も日蓮聖人のご真筆に触れる事が出来るのは、当時聖人からいただいた方が宝物として後の世までも絶対に紛失しないようにと厳重に保管されていたお蔭でしょう。
 晩年、身延山からお弟子さんや信者さんに出された手紙もたくさん残っています。そのお蔭で当時の様子が手にとるように伝わってきます。
 当時の身延山は、誰でも訪ねて来られるような所でなかったようです。山は険しく、川も急流、道といってもひどいものだったのでしょう。食物もなかなか手に入らない所だったようです。日蓮聖人はそれでもご信徒のすすめをありがたく受けられ、そんな身延に草庵を構えてささやかな生活を始められました。その聖人にとって食物のご供養はありがたい事だったでしょうし、まして、山道をふみわけて訪ねてくれた方をどんなに喜ばれたことでしょう。その時代になんと、佐渡から身延山まで訪ねて来られた方があります。    
 佐渡で食物を隠れて運んでいただきお世話になった阿仏坊さまです。阿仏坊さまは以前、念仏の信仰をされていましたが、日蓮聖人と信仰について論談された結果、聖人の信者となり、法華経信仰をされた方です。日蓮聖人が赦免され佐渡を後にする時、「剃りたる髪をうしろへひかれ、すすむ足もかえりしぞかし・・・」と言われた程、佐渡での二年半の年月は聖人にとって忘れられない日々だったでしょう。涙を流し別れをおしんだ佐渡の阿仏坊さまにとっても、遠くに行かれた日蓮聖人の事を忘れた日はありません。
 どうでも会ってお話が聞きたいと、何百里もの道のりを超えて、佐渡から身延山まで訪ねていかれました。今でも佐渡から船で渡り、電車で乗換ながら身延までというと半日以上もかかるでしょう。当時、船で渡るだけでも命がけの事、陸路といっても賊の危険や食べ物の心配もあります。何日かかったのでしょうか? 何日かかろうと、どんな危険があろうとも、一目だけでも日蓮聖人に会いたい、話を聞きたいという強い思いがあったればこそでしょう。身延で聖人に会えた阿仏坊さまはどれほど喜ばれたことでしょうか。
 その阿仏坊さまは、一度ならず翌年にも訪ねておられ、さらに三度目の時は阿仏坊さまは九十歳になっていたとのことです。はかり知れない強い信念に驚いてしまいます。九十歳で三度目の面会をされた阿仏坊さまは、その翌年に大往生をとげておられます。息子さんが阿仏坊さまの遺骨を抱いて身延を訪ねておられ、日蓮聖人は阿仏坊さまをご草庵の脇に葬ってさしあげました。鎌倉時代にこんなに強く信仰で結ばれた話が実際にあったのです。今も身延山の日蓮聖人のご廟、お墓所の脇に阿仏坊さまは眠っておられます。
 
 日蓮聖人のご草庵の脇に葬っていただいた方に、信徒であった富木常忍さんの母親もいます。今の千葉県下総にいた富木常忍という方は、日蓮聖人が最も信頼をおいていた方でした。聖人が佐渡で書かれた『観心本尊抄』という信仰の真髄を示された論文も、富木さんに届けられ、皆さんに読んでいただいた後、厳重に保存されていました。そのお蔭で現在でもご真筆を拝見する事ができます。それほどの富木常忍さんの母親が九十歳で亡くなられました。年はいくつになっても母は母、子は子です。「二母国になし」と離別の悲しみが胸にせまり、これからいかに供養をしたらいいかと心がゆれていました。富木さんの奥様から「身延の日蓮聖人のもとにお母様のご遺骨を納めていただいたらいかがでしょう」とのすすめで、富木常忍さんは迷わずすぐ出立されたとの事です。この事も日蓮聖人が書かれた書簡が現存していますのでその様子を再現してみます。
 富木常忍さんは、亡き母の遺骨を抱えて身延の日蓮聖人のもとに急がれました。数日を要してやっと身延山に到着された富木さんを迎えてくれたのは、草庵で法華経を読誦されている日蓮聖人の声でした。もうその声を耳にしただけで富木さんは涙があふれてきました。庵室に案内され、首にかけてきた母の遺骨を両腕に抱き、ご宝前におまつりしてもらい、聖人のご回向をいただきました。富木さんはありがたさに身をふるわせ、五体をひれ伏して合掌礼拝されました。回向を終えられた日蓮聖人は静かに富木常忍さんに語られました。
 「わが頭は父母の頭、わが足は父母の足、わが十指は父母の十指、わが口は父母の口なり。我が子と父母は種と実、身と影との如し。種まけば実がなる如く、わが子が信心供養の種まけば、亡き母は成仏の実をみのらせる。今あなたは種をまき母は仏になられた・・・」
 富木さんはありがたさで涙を流し、母を失った悲しみも次第に霧のように消えていきました。日蓮聖人がお住まいの身延山に母の遺骨を納めていただき、ありがたいこの事を早く下総で待ってくれている妻に知らせたいとの思いから、急ぎ下山していかれました。
 ところが、富木常忍さんはこの時持ってきていた法華経のお経本を経机に忘れて帰ってしまったのです。日蓮聖人はユーモアをこめて富木さんに手紙を書き、経本を送り届けています。
 「昔、引越しの時に妻を忘れた人がいたという。ハンドク尊者という人は自分の名を忘れたという。これは世界一の忘れん坊である。今あなたは持ってこられたお経本を忘れた。日本一の忘れん坊であろう。」
 この手紙を富木常忍さんはどんな顔で読まれたのかと思うだけでも、ほほえましくなります。でも、日蓮聖人はこの手紙にこれだけ書かれたのではありません。続けてこんな事をしたためておられます。
 「でもあなたは本当の忘れん坊さんではありません。世の中には、仏様の種を植えていただいている事を忘れてしまったり、お釈迦さまがあなたの為に留めおいているのですよと説かれた法華経の教えを忘れてしまっている人がたくさんいます。その人こそ、真の忘れん坊さんというべきでしょう・・・」
 日蓮聖人はお釈迦さまの説かれた真実を素直に聞かれ、法華経を皆さんに伝える事に一生をささげられました。厳しい態度の聖人が知られていますが、日蓮聖人は信徒の方と共に悲しみ、共に喜び、こんなに優しい言葉を信徒の方にかけておられるのです。今に伝えられている日蓮聖人のお言葉を拝見していると、私に語りかけて下さっているようにも思えます。ありがたく、日蓮聖人から学ぶことはいっぱいあります。
 
 今朝は備前市浦伊部、妙圀寺住職、平野光照がお話させていただきました。