剣道日本一への闘い

龍渕寺 浅沼 眷昭

 お早ようございます。私は御津郡建部町中田の日蓮宗龍渕寺住職、浅沼眷昭と申します。
 今朝は「剣道日本一への闘い」と題してお話しをさせて頂きます。
 平成十五年四月十六日、私は朝七時二十五分発の津山線の列車に乗り建部を出発、岡山より新幹線で博多へ、そして鹿児島本線経由で熊本へ、更に豊肥本線に乗りかえて「阿蘇」へ、午後一時三十分に到着。
 この駅に迎えに来て下さった方が、高校剣道日本一の生徒を次々と育て上げておられる泉勝壽先生であります。この先生のことを知ったのは、今年3月十三日発行の山陽新聞夕刊で、次のような記事を読んだからです。
「今年3月、教員生活三十八年の学校長が定年退職を迎える。熊本、阿蘇高剣道部の名を全国にとどろかせた前監督、泉勝壽さん(60)だ。泉さんは阿蘇高時代、全国大会団体戦で計二十回以上の優勝を成し遂げた。現在は同県蘇陽高の校長を務めるが、この四月からは阿蘇高剣道部の後援会会長として、全国制覇に向けて再び稽古に汗を流す。」という書き出しで、その記事は始まっていました。
 読みながら、目がしらがジィーンと熱くなってきました。「ぜひ、この泉先生に会いたい、そして直接お話を聞きたい」という思いが募りました。しかし、寺の用事が次々とありますので、早速には実現できません。
 三月の半ば過ぎ、岡山保護観察所で、保護司研修会があった時、観察所所長が熊本の出身と聞いていましたので、阿蘇高校のことを尋ねてみました。所長さんは「阿蘇高が剣道の強いことは知っていましたが、そういう立派な指導者がおられる事は知りませんでした」と話しておられました。
 それから数日後、その所長さんから電話があり、阿蘇高と蘇陽高校の電話番号を教えて下さいました。そこで、泉先生が校長を勤められた蘇陽高校に電話し、「泉先生にぜひお会いしたいのですが」と申しますと、早速、泉先生の携帯電話の番号を教えて下さいました。
 すぐに電話しました。私の希望の日を申し上げますと、「四月十六日でしたらよろしいです」とのご返事を頂きました。
 その日は幸い快晴に恵まれ、阿蘇駅に出迎えて下さった先生の車に乗せて頂き、五分足らずで先生のご自宅へ到着。
 先ず目に映ったのは「阿蘇剣泉館道場」と書かれ、その下に「剣泉寮」と大きく書かれた看板でした。
 「寮には何人の生徒さんがおられるんですか」と聞くと、「女子寮に二十五人、男子寮に二十人います」とのこと。男子寮の近くに何か別の建物があります。尋ねますと「試合などで遠くへ出かける時に使う専用のバスの車庫です」と。
 道場と廊下でつながった所に炊事場があります。八畳二間くらいの広さの炊事場で三人の女性が仕事をしておられます。多分、生徒さんのお母さんたちであろうと思いましたが、帰ってから、電話で聞いてみますと、ちゃんと給料を払って仕事をされている三人の寮母さんたちであったのです。
 道場は百畳敷以上と思われる広さです。奥に神棚が祀られ、剣道の防具その他練習に必要な物が整然と置かれています。道場に入っただけで、何かしら気持ちが、しゃんとするようです。指導者の方々の事務室も、実にきちんと美しく整美されています。
 先生は昭和十七年熊本県生れ、昭和四十六年に日本体育大学卒業後、教職につき、阿蘇農業高校を経て、四十八年に県立阿蘇高校へ赴任、剣道部の顧問として二十七年間の在職中、全国優勝二十五回。特に国体では平成七年から十一年まで、少年女子団体の部で五連覇を達成されています。
 全国大会個人の部で優勝した人は、これまでに四人、その人たちは、現在大学四年に在学中の人、教師になっている人、警察官になっている人など、それぞれの分野で活躍されているとのことです。
 自宅にご案内頂き、お茶を頂きながら更にお話を聞きます。
 無名の阿蘇高をなんとかして、全国大会へ出させてやりたいと思ってがんばりましたが、それには先ず、八代東高に勝たなくてはなりません。八代東高の剣道の指導は井上公義先生、この方は剣道八段で市会議員、そして八代東を全国屈指の強豪校に育て上げた方。このような大物指導者を倒すには、自分のような小物ではどうすればよいかを真剣に考えました。当時井上先生は公務多忙で、殆ど稽古場に来られなかった。たまに来られても、恐らく生徒たちを上からみて、剣道の技術しか把握されておられない。ならば自分は、とことんまで生徒と一緒にすごし、上から横から、時には中に入って生徒の個性を把握しようと考えたのです。
 学校、稽古、生活を共にすれば、生徒たちの個性や長所・短所は分かる。その長所を自分の指導でどこまで引き出してやれるか、どこまで大きく花開かせてやれるかが問題と思いました。
 はじめは小さな家を借りて合宿、次は町の公民館、次はもっと大きな寮を借りるなど、転々と宿を変えてまるでジプシーのような生活。また自分の家族に対しても父親不在を申し訳ないと思っていました。 
 どうしようかと悩んだ末に、「そうだ、自宅の隣に剣道部の寮を造ればいいんだ。そしてその隣に剣道場があればよい」ということを思いつき、昭和五十七年に自宅の隣に剣道場と剣道部の寮を造りました。
 そのために、当時のお金で千五百万円くらい銀行から借金、この時はさすがに家内も「もう離婚します」と猛反対。給料もろくに家にいれないで、その上多額の借金でしょう。反対するのは無理もないことですが、「これは男のロマンだ」と説き伏せて、やらせてもらいました。
 さて、念願がかなって男子チームが八代東高校を倒したのは、寮と剣道場ができてから四年後の昭和六十一年。その時のチームに森君という右腕のない生徒がいました。
 彼は上段の構えで、左手一本で戦っていました。中学生までは「突き」は禁止されているが、高校では容赦なく突いてくる。彼の喉と胸は真っ赤に腫れ上がり、怖くて相手に打ち込んでいけなくなってしまった。ある日、彼は「先生・・・ボクはもう剣道をやめます」と言ってきた。私は「絶対やめたらいかん」と言って、特別に彼の防具の喉元を厚く補強してやり、更に更に鍛えました。
 片腕の彼がそこまで一生懸命にやるならと、周りの選手も一致団結して稽古に励み、やっと八代東高校に勝つことができたのです。彼らは決して一流の選手ではなかったのですが、森君がいたからこそ、チームが引きしまったのだと思います。あのときの勝利は全国大会で優勝した時よりも嬉しかった。十年以上、打倒八代東を目標にしてきましたから、涙が出てきよりました。
 頂点に立って、改め八代東高の井上先生の偉大さがわかります。いま熊本は戦国時代で、熊本を制するものは全国を制するといわれています。それほど力が拮抗している中で、みな「打倒阿蘇」で向かってくるのです。正直いって、きついと思うことが何度もありました。
 井上先生も同じ思いでおられたと思いますが、そんな様子を少しも見せず、いつも平然としていらっしゃった。やはり大物でした。あの試合の後、しばらくしてお亡くなりになりましたが、井上先生と八代東高校の存在がなければ、私はここまで剣道の指導に情熱を傾けられなかったと思っています。
 いろいろとお話を伺っているうちに、帰りの列車の時刻が迫ってきました。先生は、「もうすこししたら、私のことを書いた本ができますから、お送りします」とおっしゃって、阿蘇駅まで娘さんの運転で送って頂きました。
 帰りの車中で、泉先生のお話をかみしめながら、いろいろと考えさせられました。現代のような、自分のことだけを考えて行動するような人、そして次々と起こる困った事件、そういう状況の中で、泉先生のような方が居られるということは、まさに希有のことである。こういう人こそ「地上の星」であり、「菩薩さま」であると言ってよいのではないでしょうか。
 わたしたちは、こういう方々の存在をしっかりと認識し、心にとどめ、その生きざまの何百分の一でもよいから見習って行けば、この世も少しずつ清められていくのではないかと痛感させられました。
 先生から頂いた「致知」(致すという字と、知るという字を書く)と言う
月刊誌の五月号を、車中で開くと次の箇所が目にとまりました。
 今振り返ると、私にとって教師という職業は天職でした。昭和四十年に熊本県の高校教師として採用されて以来、熊本県立阿蘇農業高校に八年、阿蘇高校に二十七年、そして校長として迎えられた蘇陽高校で三年間お世話になりました。先日行われた卒業式では、一通り式次第を終え、「これで卒業式を終ります」と言ったら、今度は生徒たちが「これから校長先生の卒業式を行います」と言い出して。私は壇上に引っ張り上げられて、彼らから卒業証書をもらいました。初めてですよ、生徒たちに自分の卒業式をやってもらうなんて。
 読み終って窓の外を見ると、阿蘇の山がかすんで見えました。
 以上、御津郡建部町中田、龍渕寺住職 浅沼眷昭が、お話し申し上げました。
 ご静聴まことにありがとうございました。
 南無妙法蓮華経。